清かなる日々
病める時も健やかなる時も、お互いを愛し合いますか。
はい、もちろんです!
牧師に向かって明朗闊達に応える新郎に、同じ純白のタキシードを身に着けた彼が、愛おしそうに目を細めた。その眼差しのぬくもりも、今放った言葉の意味も、頭では理解できているつもりだった。
けれど人は、そう簡単に物事を頭に詰め込めることはできないのだ、そこに、実体験を挟まない限りは。
せっかく用意してくれたのに、申し訳ない。
そう言って青白い顔でベッドに突っ伏してしまった恋人の言葉に、胸が痛む。
俺の仕事は、まだ日も昇りきらない早朝から始まる。そのため、俺とは数時間の差で家を出た彼の様子を知ることはできなかった。
今朝──と言っても夜中の三時ではあるけれど──薄暗闇のベッドで見た彼は、普段と変わらないようだった。規則正しい寝息を立てていたし、苦しむ素振りだとか、呼吸が乱れているといったこともなかった。そう、どこにも異常なんて無かった。
だから、俺は安心して出勤した。そして仕事中は彼のためのお祝い事で頭がいっぱいだった。
誕生日だった、彼の、一年で一番大切な日。
世界で一番愛している人の、大切な日。
そうして彼よりも早く帰宅した俺は、特別な日をお祝いするために、あれこれと豪勢に料理を盛り付けたのだ。
けれど、事態は一変した。
そんなきらびやかな料理を横目に、帰宅したばかりの恋人はふらつく体で口もとを押さえ、ゴミ箱に顔を突っ込んだのだ。そうして続く、吐瀉物がビニール袋に叩きつけられていく音。ほんの一瞬、息を呑んだ俺の初動は遅れた。慌てて彼の広い背を撫で擦ったけれど、俺は少しも彼の異変を見抜けなかったことを悔やんだ。
何度も嘔吐を繰り返した恋人が、冒頭の言葉を口にしてやっと眠りについたのは、日付もすっかり変わった時刻だった。
もしかしたらノロウイルスかもしれないと思い、嘔吐物の処理や自分の服装には気を遣った。ドアノブや廊下の消毒をあらかた終えてからキッチンへ向かうと、冷蔵庫に仕舞い忘れたご馳走の山にようやく気が付いた。
何もかもが台無しになってしまった。
大食らいの彼に、めいっぱい食べて欲しくて頑張ったけれど、全て無駄になってしまった。何が、誰が悪いかなんて、そんなことを考えたって仕方のないことだけれど、自然と零れた涙を拭う術は見い出せなかった。
翌日、病院の指示に従って診察を受けた恋人は、やはり恐れていた感染症だった。しばらく自宅で隔離されることになるが、ひとりきりにするわけにはいかない。俺もついでとばかりに有給を取って看病をすることにした。
彼は一人でも大丈夫だと強がっていたけれど、ただでさえ弱っている身体で、己が出した嘔吐物の処理が正常な判断で出来るはずもない。そう強く言い聞かせると、恋人はすまないと言って、眉尻を下げた。
普段見ることのない恋人の、頼りなさげな雰囲気は、世話好きの俺の心に火をつけた。
医者の指示はもちろんのこと、SNSでのノロウイルスの対処の仕方を頭に叩き込んで、とにかくありとあらゆることをやりつくした。
消毒、殺菌、消毒、殺菌。
嘔吐はしばらく続いていたが、出すものを出すと幾分か楽になるのだろう、次第に彼の顔色は良くなってきた。その様子にほっとしていた俺は、素人の消毒がいかに手ぬるいかを知り、彼と同じようにゴミ箱に頭を突っ込む始末となった。強制的に嘔吐させられるこの感染症の威力は強烈だ。泣きながら吐き戻しつつ、恋人はこんなにもつらい思いをしたのかと、再び胸がじくりと痛くなった。
それからは、お互いを支え合いながらの看病生活だ。災害用にストックしていたレトルトのおかゆで空腹を補いつつ、恋人は何くれと俺の世話を手伝ってくれた。
せっかくの誕生日だったのに、ごめんなさい。
恋人がすっかり固形物を食べられるようになった頃、今だおかゆしか食べられない自分の情けなさに涙した。同じ食卓を囲んでいた恋人は、突然の謝罪に箸を止めた。
彼の食事を用意してあげられないこと、洗濯物も掃除も、部屋の消毒だって任せてしまったこと、全部全部謝って、それから、あなたの誕生日にご馳走を用意してしまったことを詫びた。そしてこんなことで、あなたの食事のペースを乱してしまって申し訳ないと、声を震わせた。
大の大人が泣きじゃくりながら謝る姿なんて、みっともないことこの上ないのに、彼はとびきり優しい笑みを浮かべて、そっと俺のそばに寄って、優しく抱きしめてくれた。それすら申し訳なくて、俺は身を縮こまらせて、彼の腕の中ですすり泣いた。
それなのに恋人は、幼子のような大馬鹿者の頭をそっと撫でてくれた。あたたかい手のひらだった。
「君のとびっきりのご馳走だ、むしろ食べられなかった俺のほうが謝らないといけないな。君の愛情を、君の手で捨てさせてしまったのだから」
そう言って、泣いてばかりの俺の背をぽんぽん叩きながら、彼の低くて太いハミングが、ハッピーバースデーの歌を紡いだ。
昔馴染みのあの曲は、彼の声帯を通すと別物のように耳へと届く。一年で一番大切な日を祝う歌が、まるで、今日だって特別な日なのだと教えてくれるみたいにして。次々に奏でられる深みある音程に、後悔という名の独りよがりの悲しみは溶け落ちていく。
彼の気持ちを考えもしない愚か者は、その愚かさを知ったのだ。
頬を伝う涙の温度があたたかくなる頃、そのメロディーが唇に触れた。
「君も俺も、元気になったら、今度は二人で美味しいご馳走を食べようか。君が作ったご馳走でもいい、俺と二人で作ったご馳走でもいい、何ならデリバリーを頼んでしまうのも一興だ、それから……」
プレゼントはもちろん、君がいいな。
そう付け加えてはにかむ彼の眩しい笑顔に、もう俺の顔のどこにも、悲しみはない。彼の背にぎゅっと腕を回して、彼が呼吸する音に耳を当てた。
病気なんて誰もが経験することだけれど、そのつらさを理解し合える相手がいることの幸せを、何と呼んだらいいのだろう。
ただ生きて、ただ元気で、それだけでいいのだ。
当たり前の、何でもない普通の日常が、これほど愛おしいのだと、俺は浸るように目を瞑って、恋人との抱擁に酔い痴れた。
それから程なくして、俺も恋人も全快した。快気祝いだと奮発して、色んな料理を頼んで家まで運んでもらった。病み上がりなのに、こんなに食べていいんだろうかという幸せを、二人で分かち合った。
病めるときも健やかなる時も、と愛を誓う常套句があるけれど、清かなる日々もまた、あなたと共にありたいと願う。ただ、それだけを願う。

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