時々、無性に怖くなる
人を愛するということを考えるにつれ、時々、無性に怖いと思うことがあります。
恋であれば、まだ可愛らしいものであるでしょう。あの人が好き。この人が好き。片想いであれば尚の事、些細な恋しさというものが、手帳に貼り付けていくシールのように綺羅びやかなものとして眺めていられるでしょう。
けれど人を愛するということは、恋などという甘っちょろい事象を遥かに超えた、深い情のようで、どうにも扱い難く感じるのです。
親戚や家族に向けた愛情というものが、呼吸をするように自然と生まれるものだとすれば、今自分が抱えているこの『愛情』とは何か、考え込んでしまうのです。生まれ落ちてすぐ抱いてきた家族への愛と、偶然であれ必然であれ恋した人への愛は、根源こそ同じでも、どうしてもそれを懐き続ける怖さを感じます。
それは即ち、この人を愛し続けられるだろうかという不安へと繋がっていく。いつまで、いつまでこの人を愛していられるのだろうかと。終わりはあるのだろうかと。
愛する人の熱い身体に抱きしめられながら、そんなことを考えてしまう自分は、本当にこの人を愛しているのだろうかと思うのです。
「炭治郎」
頬に触れる手のぬくもりに、意識が揺すり起こされる。開けていた目を、もう一度よく凝らしてみれば、愛おしい人の顔がそこにあった。
黄金色の、美しい目をした人。
宵闇の静かな空気の中で、柔らかいベッドの上に二人、生まれたままの姿で抱き合って。彼はもう一度私の名を呼んだ。
「愛している、炭治郎」
言葉よりも正直に、身体は深く繋がり合っているのに、それでも言葉にしないと不安なのだろうか。
「私も、愛しています……煉獄さん」
私も彼も、同じ言葉を紡いで唇を塞いでいく。腹の奥に打ち付けられる熱は、ただの欲望でしかないのに。彼を受け入れるために濡れている股ぐらもまた、情欲を持て余しているだけなのに。それでも私たちは、これを愛と呼ぶのだ。いつかきっと、終わりが来るだろう愛を抱きしめながら。
ふと、彼の指先が目許を拭った。ひんやりとした冷たさの正体が涙だと気が付いたのは、私のほうが少し遅かった。
「……抜こうか」
「やだ、抜かないで」
「かわいい」
瞼に優しいキスを落とされて、煉獄さんの性器が私の中からゆっくりと引き抜かれた。内壁は出て行こうとする彼を引き止めようとねっとりと絡み付く。内股に力を込めて入れば、彼を留めることは容易だっただろう。けれど、やっぱり、気がかりなことが頭を占めているせいか、彼を手放してしまった。ぐす、みっともなく鼻を鳴らした私の頭を優しく撫でて、煉獄さんはベッドの下でくしゃくしゃに丸まっていた私の下着を拾ってくれた。
「愛し合うというのは、何もセックスだけじゃない」
さっきまで熱く求め合っていた私たちに向けて言う言葉でもない気がして、私は泣きながら柔らかく微笑んだ。
トイレで用を済ませて下着を身に着けると、少しだけ気持ちが落ち着いた気もする。煉獄さんは、以前デートしたテーマパークで買った揃いのᎢシャツを用意してくれていた。私が緑、彼は赤に着替えて、柔らかなベッドの上に腰を落ち着けた。冷蔵庫から、よく冷えたペットボトルと、私の好きなクランベリーチョコを持って来てくれる優しさは、いつだって変わらない。変わらないはずなのに、どうして今日はこんなにも無性に、怖くなってしまったのだろうか。膝を抱えてぼんやりしている私の頭を、煉獄さんは子供をあやすように撫でてくれる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい、俺がもっと早くに君の機嫌の変化に気付くべきだったんだ」
「うん、でも、本当に……ごめんなさい、私、どうかしちゃったみたいで……」
言葉探しのゲームに迷い込んだように、ゆっくりと次に紡ぐべき言葉を探す。
「よく、わからないけれど……怖くて……何だろう、煉獄さんのことは大好きで、愛してるってわかってるのに……いつか、終わりが……」
「うん」
煉獄さんは、出会った頃と変わらずに私の話しをじっと聴いてくれている。
彼と出会ったカフェで、あなたみたいな素敵な人を見たことないんですと、延々と煉獄さんを褒めちぎっていた私を受け止めてくれた日と同じように。
そうだ、いつだって彼はどんな私でも受け入れてくれる。
早くに父を亡くし、女手一つで六人もの子供たちを育てる母の力になりたくて、子供心をひた隠しに背伸びしてきた。不安や恐怖はいつだってあったけれど、そんなことおくびにも出さずに生きてきた。わがままだって言わなかった。欲しいものはずっと我慢して、下の妹や弟たちには惜しみなく与え続けてきた。
そんな私の初恋が、煉獄さんなのだ。
母と共に経営していたカフェに訪れた煉獄さん。それはそれは見目麗しい人で、誰しもがきっと恋に落ちたに違いない。私も同じで、たったひと目で彼に恋をした。だけど、自分の欲望に蓋をしてきた私は、己の気持ちに気付かなかったフリをして、お客様である煉獄さんと接した。彼のコーヒーを飲む所作の美しさ、食事の作法の良さに惚れ惚れして、退店する時の丁寧な挨拶に胸が甘く疼いて。
それだけなら、ただの甘酸っぱい初恋で終わるはずだったのに。この人に焦がれなければ、この出会いもなかったことになるはずだったのに。
「煉獄さんと私は、歳が離れているでしょう」
ベッドの上で体育座りをして俯く私は、あの日よりもずっと臆病になってしまったのかもしれない。
「もっと煉獄さんには相応しい人がいるんじゃないか、子供っぽすぎる私とじゃ釣り合わないんじゃないかとか、……そもそも私は煉獄さんが好きなわけではなくて、年上の人に父を見ているだけなんじゃないかって……」
酷い言葉だ。視界が滲んで、彼の相槌の声すら聞こえなくなる。
「私、怖いんです……いつか、いつか煉獄さんを悲しませてしまうんじゃないか、この愛に終わりがあるんじゃないかって……すみません……」
「終わりがあるとしても」
私の会話が途切れたところで、震える肩を煉獄さんは抱き寄せた。
「それでも俺は、俺自身が炭治郎と共にいたいと思った。それだけじゃ、不安だろうか」
「ごめ……んなさい……」
泣きじゃくる子供の額に、煉獄さんの唇が触れる。ああ、なんてあったかいのだろう。
「じゃあ、こうしよう、炭治郎。君が泣いて蹲るような時には、俺がそばにいて手を握っていてあげよう。泣いて喚いても、時間というものは過ぎ去っていくばかりだが、心だけは誰も、君を置き去りになんてしないから」
煉獄さんは少しだけ息を吐いて、自嘲気味に微笑んだ。
「なんて、殊勝なことを言って歳若い君を手篭めにしようと目論む悪い大人かもしれないけれど」
カフェの常連になった煉獄さんを快く思わなかったお客様が、煉獄さんに吐き捨てた台詞だ。私目当てでカフェに入り浸っていた、ねちっこい男の人が言ったのだ。『お前だって、炭治郎ちゃん目当ての下劣な男だろう、炭治郎ちゃんを手篭めにしようとしているんだろう』と。そんな意地の悪い、嫌な言葉に、煉獄さんはカラリと笑った。その時くれた言葉は、今だって大切な──。
「俺は、炭治郎の笑顔が好きなんだ。君が些細なことで笑って、喜んで、嬉しいと思ってくれることが、俺の何よりの幸せなんだ」
だから、これからも。
「君を愛していると、言わせてくれないか」
「煉獄さん……」
涙で濡れた目で見上げた彼もまた、目許を濡らしていた。どうして泣いちゃっているんですかと笑って、笑いながら、泣きながら抱きついて、そうして確かめ合うように触れた唇のぬくもりに、心のどこかで震えていた恐怖が少し、消えてくれたようだった。
「さて、不格好なプロポーズになってしまったけれど」
そう言って煉獄さんは、ベッド下のバッグから小さな小箱を取り出した。銀色の小さな、ころんとした小箱を私の手のひらに載せて、彼は目を細めた。
「愛しているよ、炭治郎。これからもずっと、君のそばに」
小箱の中から現れた、小さな幸せの形の揃いのリング。「君が不安を感じるなら、怖いというのなら、その恐怖も一緒に俺に背負わせてくれないか」
積み重なっていく優しい言葉たち。幸せな言葉たち。
こうして私たちは、小さな怖れを感じながらも、日々少しずつ、それを上回る愛に気が付いていくのかもしれません。それはまやかしかもしれない、ああでも、まやかしで良いのかもしれない。この怖れを、恐怖を、理解してくれる人が私にはいるのだから。
怖くても良いのだと、私は彼の手を取るのでした。

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