春恋し、迷い狸
「困った、困った、どうしよう」
狸の炭治郎は、夜の町並みをきょろきょろしながら走り抜けていました。
茶色い四つ足でアスファルトを踏みしめ、細い鼻で辺りの匂いを嗅ぎ取ってみるものの、嗅ぎ慣れた匂いを掴むことができません。彼の焦りとは裏腹に、丸い耳に飾られた花札のような耳飾りだけが、カラカラと涼やかな音を立てて、宵闇を行き過ぎていきます。
寒い寒い冬の出来事でした。
山では、久しぶりに雪がこんこんと降り積もりました。近頃は地球温暖化なるものの影響で、雪が降ってもすぐに溶けてしまうことが多かったのです。炭治郎の記憶にも、こんな大雪はありません。ですので、小さい狸の子供たちはおおはしゃぎで雪玉転がしに勤しみました。
しかし、雪で喜ぶのは子供ばかり。大人たちは困った顔をしながら、慣れない雪かきに追われていました。そうです、炭治郎たち狸たちの村は、すっかり雪に覆われてしまったのです。
狸とは言ったけれど、炭治郎たちは化け狸。普段は人の姿をしていて、村の見てくれも人里そのもの。穴ぐらに住処を持つ狸たちとは違い、営みは人間と同じです。そのため、雪ばかり降られていては生活できません。
ところが、ある日のこと。
「兄ちゃん、食糧が無いよ」
忙しい冬の盛り、弟たちが心配そうに食糧庫を覗いていました。思っていたよりも雪の日々が長引き、人間の町への買いだしが遅れてしまっていたのです。(狸たちは山の幸も頂くけれど、人間に扮しているからには人間の食糧も必要なのです)
父は冬に入る前から病床に臥せっており、母は最近腰が悪く、思うように歩けません。また村の狸たちは年寄りばかり。少し前まで若い狸もいましたが、稼ぎを求めて都会へと移り住んでしまっています。
そこで、村一番の若者である炭治郎が、雪山を超えてはるばる人里まで下りて食糧を求めに来たのです──。
しかし、どうしたことでしょう。歩き慣れたはずの人里ですが、どこもかしこも見覚えがありません。秋頃、父に連れられて人里に降りて来ていたときには、商店街というものがありましたが、それがさっぱりなくなってしまっているのです。
狐につままれたような心地です。
あちらの道も、こちらの道も知りません。
炭治郎は、もしかしたら全然知らない土地に降り立ってしまったのかもしれません。これでは、買い出しどころではありません。
「きゅうん……」
しょんぼりと尻尾を垂れ下げつつ見上げた電柱には、キメツ町という住所が書かれています。人間の文字が判別できる炭治郎は、ああ、本当に知らない土地に来てしまったのだと、しょげ返りました。
「んん、なんだァ? ありゃ、猫かァ?」
しんみりと自分の失敗に浸っていると、酔っぱらいの人間の足音が近付いてきました。ハッと振り返ると、白っぽい髪の男と、キンキラの髪の男が酒の匂いをぷんぷんさせながら歩いてきました。
ぴゃっと飛び上がるほどに、人相の悪い人間たちです。
「いや、あれは犬ではないか、不死川。茶色くてまんまるだぞ」
「茶色いまんまるって言ったら、猫だろうがよォ、オイどうした猫、お前……迷子か?」
「迷い犬に決まっている!」
「静かにしろやァ煉獄、猫ちゃんが逃げちまうだろうがよォ」
二人の大柄な男たちは口々に言い合いながら、炭治郎の前にしゃがみ込みました。傷だらけの恐ろしい顔の男と、猛禽類のような鋭い目つきの男。炭治郎は恐ろしくて恐ろしくて、震え上がりました。まして、その二人がぬうっと両手を近付けてきたのですから、たまったものではありません。
「お、お、お願いです食べないでください、俺は美味しくないです……!」
思わず叫ぶように言い放った炭治郎は、すぐに自分の過ちに気が付きました。
狸が人語を喋れるはずがないのです。
「あ? おい煉獄、俺ァ酔っ払ってるのか? この猫ちゃん喋ったよな?」
「犬に決まっている! そして不死川、君も俺も酔っている! わはははは!」
万事休すです。炭治郎は、自分の失態に白目を剥きました。
「きゅうん……」
それからの記憶はありません。狸お得意の狸寝入りを決め込もうとして、そのまま気絶してしまったのですから──。
炭治郎が目を覚ましたのは、あれからどれほどの時間が過ぎた頃でしょうか。もうすっかり朝にでもなってしまったのでしょうか。
「ううん……」
ぼんやりとした目で、辺りを見回します。やけに明るいので、きっと朝が訪れたのでしょう。自分はあの人間たちの脅威から逃れられたのか。そう思った時のことでした。
「まあ! 目を開けたわ、かわいいわ!」
今度は甲高い女性の声がしたので、炭治郎は文字通り飛び上がりました。しかし、跳ね起きた狸の背中には、ふわふわの柔らかい布がかけられていました。寝転んでいたと思しき足元にも、ふかふかの布が敷かれています。
「ここは……」
炭治郎がぽつりと呟くと、桜のような髪の毛をした女性がじいっと炭治郎のことを見つめながら、ニコニコと口を開きました。
「ここは私のアトリエなのよ、ふふ、本当に人の言葉を喋る狸さんなのね! 私、感動しちゃったわ!」
「人の言葉を喋る狸……」
鸚鵡返しに返事をしつつ、炭治郎はぴゃっと丸い尻尾を立てました。目の前の人間は、女性は、炭治郎のことをじっくりと観察しています。今更、狸言葉を喋ったところで、一度出た人間の言葉は取り消せません。
ここは、腹を括るしかなさそうです。
狸の炭治郎は、すっと前脚を揃えて頭を垂れました。
「お姉さん、どうかこのことは内密にお願いします……狸が人の言葉がわかるなんて知られたら、生きていけないのです……どうか……」
「信用しない、信用しない。そんな奇妙奇天烈な生き物の言う事なんて、嘘に決まっている。甘露寺、そいつに噛みつかれないうちにこっちへ来い」
ねちっこい蛇のような声のほうへと目を向けると、白いマスク姿の黒髪の男が炭治郎を威嚇するように立ち塞がっていました。本能的に、炭治郎は一歩退きました。
「そうかしら、今時喋る狸さんなんて珍しいわ、煉獄さんたちに命乞いもしていたそうだし、きっと良い狸さんなのよ」
甘露寺と呼ばれた女性はそう言うと、炭治郎の前で膝を折りました。彼女の目はきれいに澄んでいて、匂いからも敵意は見当たりません。だからでしょうか、炭治郎の口は自然と綻びました。
「……驚かせてしまってすみません、おれは竈門炭治郎といいます。人間の言葉で言うと、化け狸の一族です。訳あって人里に降りてきただけで、人に危害を与えることはありませんので……」
炭治郎は祈るように今一度、二人に向かって頭を下げます。
「どうか、このことは内緒にしていてください」
「そいつァ、できねえな」
ジャリ、と靴音がして先刻見た白い髪の男がぬうっと現れました。彼は己の拳を撫でるようにしながら、炭治郎に向かって歩いてきます。
ああ、もう駄目だ。今度こそおしまいだ。
震える炭治郎に向かって、男は大仰な仕草でしゃがみ込みました。
「訳ってなんだァ、獣が人里に降りる時ってのは、大抵何か訳があるってのが相場だ、話してみろォ」
男の目は末恐ろしいほどの迫力がありますが、炭治郎に向ける感情には、心配が現れていました。狸の炭治郎には、そういった人の機微がよくわかるのです。
「……実は──」
ですから炭治郎は、自分が狸として人語を話していることを知られてはならない、そういった決まりごとを忘れて、仔細を一切合切話してしまいました。
炭治郎が運び込まれたのは、甘露寺という女子大生のアトリエでした。よくよく見回せば、たくさんの絵が壁や棚に立てかけられています。確かキャンバスというもので、部屋の隅に佇んでいる組木のようなものが、イーゼルなのでしょう。狸の里で教えてもらった知識が、今活かされていて、炭治郎は大興奮でアトリエの中をくるくる回りました。
アトリエの奥には大きなソファがあり、そこで甘露寺、白い髪の男の不死川、マスクをした黒髪の男である伊黒──その三人が、ああでもないこうでもないと会話を繰り広げておりました。
「不死川、本当にあんな気味の悪い狸のことを信用するのか?」
「信用するもしないもねェだろうがよォ、実際に喋って動いてんだからよォ、それに悪い目はしてなかった」
「わかるわ〜あの子、とってもきれいな目をしてるのよね、曇りなき眼っていうのかしら、不思議よね〜喋る狸なんて摩訶不思議だわ、でも家族のために頑張ってるだなんて感動しちゃう、なんとかしてあげたいわ! ねえ伊黒さん、炭治郎くんのために手助けしてあげましょうよ!」
「甘露寺……君の言うことはいつだって正しい……」
「で、炭治郎っつったな、お前の里はどこにあるんだァ?」
急に話しを振られた炭治郎は、ひゃっと飛びがると、ふるふると震えながら不死川を振り返りました。優しい匂いはしていますが、顔はやはり傷だらけで恐ろしいことに変わりはありません。
「く、雲取山です……」
「雲取山だァ? ……車で三時間くらいじゃねェか?」
「そういえば、最近あのあたりに大雪が降ったってニュースで言っていたわ、きっとそれで狸さんたちが困ってしまったのね」
「不死川、冬タイヤの用意はあるんだろうな? 雪道で滑ったら元も子もないぞ」
「俺の家は毎年冬は雪山でスキーしてるからよォ、雪道に関しては任せてくれや、ま、今日は酒が入ってるから無理だがよォ」
不死川は、おもむろにこちらへ近づくと、炭治郎の頭あたりを厭うこともなくワシャワシャと撫でてくれました。それは、ポカポカと心地よいぬくもりでいっぱいでした。
「明日にでも帰してやるから、安心しろやァ。食糧もいくつか見繕ってやるからよォ」
「いえ、それには及びませ──」
と、いいさした炭治郎の身体をひょいと抱き上げたのは、甘露寺です。彼女は「ふわふわでかわいい!」と炭治郎を抱きしめつつ、「お姉さんたちに任せなさい!」と、明るく笑ってくれました。すぐ近くでマスク姿の伊黒が鬼のような形相をしていましたが、炭治郎は、なんて優しい人たちなのだろうと胸を震わせてばかりいました。
それからのことは、まるでおとぎ話のようなテンポで進みました。
先日、炭治郎のことを犬だと言っていたキンキラの髪をした煉獄という男も駆けつけ、食糧調達に勤しんでくれたのです。
もともと炭治郎は買い出しに来ているのですから、充分にお金も持ち合わせています。彼らにお金を差し出しましたが、困った時はお互い様だろうと、一蹴されてしまいました。
そうして、あれよあれよと必要な食糧が集まり、車に詰め込まれました。不死川の運転で雲取山へと、炭治郎たちは向かいます。炭治郎は、甘露寺が用意したペット用のケージに入れてもらい、座席にシートベルトをしてもらいました。車内には交代用の運転手として煉獄、伊黒が乗り込みました。甘露寺は、個展の準備があるそうで、同席できないことを悔やんでいました。
ケージの中からは、狭い景色しか見られません。
けれども、車中の男たちの会話は明るく炭治郎の前で、ぽんぽんと仲良く繰り広げられていきます。
「皆さんは、仲が良いんですね」
しみじみと炭治郎が呟くと、
「わはは! 俺たちは同期だからな!」
と、元気な煉獄の声が返ってきました。同期とは何のことか、炭治郎にはよくわかりませんでしたが、仲良しの言葉と同義だろうかと、目をとろりとさせました。彼らの声は時折強く、けれど五月蠅すぎず、程よく炭治郎の心を穏やかにしてくれたのでした。
「このトンネルを越えた先が、雲取山になるなァ」
山に分け入っていくにつれ、道は白くなっていきます。しかし、雪国でもない道は、深い雪が降り積もる地域への行き来を禁止していました。
この先通行止めという看板が立てかけられ、封鎖されたトンネルの前で車は止まりました。薄っすらとですが雪もちらついてきています。
運転手である煉獄は雪に不慣れなのでしょう、ハンドルを握っている後ろ姿に緊張が見て取れます。炭治郎はそれを見て、ふわりと微笑みました。
「煉獄さん、不死川さん、伊黒さん。ここまでどうもありがとうございました、ここからは故郷になりますから、自分の足で帰ります」
「帰るだと? そんな小さな身体で、食糧をどうやって持っていくんだ?」
伊黒は顔を顰めながら、炭治郎の入ったケージに寄りかかります。炭治郎はふんすと鼻を鳴らしました。
「俺をケージから出して下さい、化け狸の力をお見せしますよ!」
伊黒たちは顔を見合わせます。そもそも狸が人の言葉を喋ることほど、珍しいことはないのですから。これ以上のことが起こっても、何ら不思議はないのでしょう。
「では、ぽんぽこぽん!」
ケージから出してもらった炭治郎は、後部座席に姿勢良く座ると前脚を擦り合わせました。すると、なんということでしょう。小さな破裂音とともに、狸の炭治郎の姿が十歳ばかりの少年の姿に変わったではありませんか。これには車中の男たちも、声を失います。
「荷物のことは心配しないでください。化け狸秘伝の運搬術がありますので」
炭治郎少年は、緑と黒の市松模様のジャンパーのポケットから葉っぱを取り出すと、車の後方に積んであった荷物を器用にそれに包み込んでしまいました。あれよあれよと言う間に、ダンボール四箱ぶんくらいの荷物が、手のひらサイズの葉っぱ四枚に変わりました。
「質量を無視した構造、どうなってやがる」
不死川はカッと目を見開いて、炭治郎の持つ青々とした葉っぱを眺めました。何の変哲もない、ただの葉っぱでしかありません。
炭治郎少年は得意そうに胸を張りました。耳もとで耳飾りがカラリと揺れます。彼の額には、稲妻のような痣があります。かわいいだけの狸ではないのだと、三人はあらためて思い直しました。
「皆さん、どうもありがとうございました。このご恩は決して忘れません」
炭治郎少年は、トンネルの前で丁寧にぺこりとお辞儀をしました。ここからは、人間に化けて歩いていくと聞いて、不死川たち三人は驚いていました。
「俺たちは化け狸ですが、普段は人の姿で過ごしています。里までは、この姿で帰ることが習わしなんです」
「そうか、気を付けろォ」
不死川は、穏やかな目をしていました。
「風邪など引かぬように、気を引き締めていくんだぞ!」
煉獄は、別れの寂しさからか声が震えていました。
「ふん、さっさと行け」
伊黒はそっけない言葉で別れを告げましたが、心配の匂いが漂っていました。炭治郎少年は僅かに目を潤ませて、今一度三人に向かってお辞儀をしました。
その時、一際強い風が吹いて、辺りに雪片が舞い上がりました。三人が思わず目をつむり、そっと目を開けた時にはもう、炭治郎少年の姿はありませんでした。
市内へと帰る道すがら、三人の会話は少なめでしたが、後部座席に残されたケージへと寄越す視線は、どれも似たような、あたたかさがありました。
炭治郎少年は、きっと狸の里へと帰ることができたのでしょう。たっぷりの食糧を携えて。彼はまだまだ子供なので、今すぐには恩返しに向かえないでしょうけれど、いつかきっと、助けてくれた人間のもとへ向かう時が来るでしょう。
今はただ、あたたかい春を待つばかりです。
おしまい

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