壮大な人生への第一歩なんて、ほんの一瞬でしかない。大海を知らぬ小さな足は、その海の向こうに何があるのか、何を憂えるのかも知らず──知ろうともせずに──ただ無邪気にその一歩を進めるのだ。
蒸すように暑い春の昼下がり。
とっくにお昼寝の時間など過ぎたのに、まだまだ元気な愛娘の相手をしながら、炭治郎は欠伸を噛み締めた。網戸越しにそよぐ穏やかな風や、鳥の囀りといったものが、連日の育児に疲れた頭をほどよく、揺り篭へと誘おうとする。
畳の上に敷きっぱなしの布団は、この敷布の海をハイハイで闊歩する我が子の膝や、お座りに失敗して転倒した時に頭を守るためにある。
いわば、安全装置だ。
這う事しか知らない赤子は、自身の興味が湧いた対象へと一生懸命に這って行き、その物の感触や色、匂い、時には味を確かめる。子供の行きたいまま、やりたいままにさせてやっても良いけれど、放っておいて、それで重大な事故に繋がってはいけない。
だから、多少眠気が来ても目を凝らして、よく観察せねばならない。
これがまた、実に実に退屈で。
もみじみたいな小さな手が、ぺたぺたと布張りのソファの側面を叩く様子を、見るとはなしに眺めては、大欠伸。
こんな日々を、あとどのくらい体験するのだろうか。いつまでも赤ちゃんだと思わないわけはないけれど、この一日一日の時間の流れが非常に緩慢であればあるほど、その進みの遅さに退屈してしまう。散歩に出る度に、人はこちらの内情など知りもしないから、今が可愛いさかりね、なんて言える。
大変なのは今だけよ、すぐに手が離れていっちゃうんだから。
なんてことも、言われたのだったか。周囲には、ベータのお母さんばかりで、炭治郎のようなオメガのお母さんは少ないから、見た目が男であるから、どうにも、いまいち自分がお母さんであると自覚できない面もある。
欠伸がまた、ひとつ。
いよいよもって瞼が重くなってきた。この春の陽気にしては暑すぎる気候が、子供の眠気を吹き飛ばしてしまうのだろうか。『お母さん』自身はもうとっくに、夢の中へと片足を突っ込みかけているというのに。
ぺちぺち、ぺちぺち。
ソファを叩く音が少しだけ強まった気がした。少しだけ、睡魔が片目を瞑った気がした。瞬きほどの、ほんの束の間のことだった。
モスグリーンの布張りのソファは、将来子供ができた時にもゆったり座れるように、新婚当初に揃えたものだ。その上で愛する夫と仲睦まじい日々を送り、今では愛らしい子供が生まれている。その思い出のソファの前で、小さな手のひらがその側面をむんずと掴み、ぐっと腕に力を込めている。
我が子を産んでおおよそ八ヶ月。初めて寝返りを打ったことで大騒ぎしたのも束の間。ただ寝転ぶだけの世界が激変したのが嬉しかったのか、両手両足を使ってハイハイをしたのは、ついこの間のことだ。
そう、まだまだ二足歩行とは程遠いところにあるはずの娘が、今、渾身の力を込めてソファの壁面を掴み、そのむちっとした足で大地を踏みしめようとしている。
眠気なんてもうどこかに吹き飛んだ。
スマホを探すことすら忘れ、ただ魅入る。
奇跡の瞬間だ。
きっとドラマの世界であれば、気の利いた台詞が飛び出しているはずだ。頑張れだとか、すごいぞ、だとか。けれどごく普通の日常生活に、小洒落た台詞なんてお呼びでない。呼吸ですらも止まりそうなほどに、唾を飲み込んで。震える足が、今、確かにこの瞬間この世界に立つ。その奇跡を前にして、どうしてそんな芝居がかった言葉が飛び出せるだろうか。
生後八ヶ月。
そんな言葉が脳内に過ぎ去っては、生後八ヶ月の赤ちゃんですよと、炭治郎の肩を叩いた。この世に生を受けて八ヶ月、その日、我が子は人生における第一歩、この大いなる地に足を踏みしめた。
「あぅー」
しかしぷるぷると震える足はすぐに限界を迎え、かわいい我が子はぽてっとその場に尻もちをついた。彼女のお尻を守るのは、床一面に敷いた布団たちの柔らかさだ。
「……か、かなめ〜!」
わっと昂ぶる気持ちのまま赤ん坊を抱き上げると、甘くて優しい匂いが広がった。我が娘、かなめは炭治郎の興奮が何を示しているのかわからず、にこにこと機嫌良さそうに笑うばかりだ。
「いいかい、君は今偉業を成し遂げたんだぞ! 世界で一番の偉業だ! おめでとう、かなめー!」
「むぅ、どうした炭治郎! 何事だ!」
そう叫びながら部屋に入ってきたのは、エプロン姿の我が夫、杏寿郎だ。彼は手にピンクのゴム手袋をつけたまま、血相を変えて飛び込んできた。
「立ちました!」
間髪入れずに炭治郎は拳を握る。
「立ったんです、杏寿郎さん! かなめが、立ったんです!」
炭治郎の言葉に、杏寿郎は勢いで持ってきてしまった泡だらけのスポンジを落とし、慌てて辺り一帯に散った泡を掃除することとなった。でもそれも、嬉しい思い出のひとつなのだ。
ひとたび一歩を踏み出せば、それが人間の本質であるように、子供は一瞬にしてより多くの知識を得る。ただ一歩の偉業が、数十歩、百歩、数え切れない足跡となるのは、あっと言う間だ。生まれたばかりは必須アイテムだったベビーカーは、子供が三歳を迎える頃には無用の長物と成り果てた。同時に、三年間お勤めを果たした働き者は、そのお別れを間近にして取っ手が大破してしまった。よくぞここまで頑張ってくれたと、炭治郎と杏寿郎はベビーカーを労った。
「まーま、まーま!」
「はーい」
呼ばれるがままに手を差し出すと、小さくて丸い手のひらが、炭治郎の傷だらけの手を包み込む。こちらを見上げる、くりっとした大きな黒い瞳には、自分たちはどんな風に映っているのだろうか。
その黒曜石にも似た目に、淡いピンク色の海が浮かぶ。
「炭治郎! 用意ができたぞ!」
春風に吹かれ、舞い上がる桜の花弁に目を細めて、振り返る。
香ばしい匂いが満ちたお花見会場の一角で、夫である杏寿郎が紙皿に山のように焼き上がった食材を積み上げて、炭治郎たちへと差し出した。周囲には、学生時代からの友達や、高校の恩師たちも勢揃いで、賑々しく花見を満喫していた。
「かなめちゃーん、炭治郎くーん、お肉焼けたよー!」
この声は、伊黒先生の奥さんである、甘露寺さんだろう。ほんのりと膨らんだ彼女のお腹にも、新しい命が宿っている。そのため、先程から伊黒先生が甲斐甲斐しく彼女のサポートに回っている。椅子を勧めたり、飲み物や食べ物を率先して与えている。それを甘受しながらも、甘露寺さんは、まだ小さいだろうからと、このお花見会場の賑やかしさに目をぱちぱちさせていたかなめに、手遊び歌や絵本で和ませてくれたのだ。
杏寿郎から手渡された紙皿を受け取った彼女のもとへと、かなめと一緒に歩を進める。ついこの間までは、この一歩を知らなかった子供は、我先にと競うように、この母を引っ張って走っていく。良く焼けた肉の匂いと、野菜の香ばしさは、食欲旺盛な子供の目を輝かせるようだ。火があるところは危ないぞ、なんて言って諌めながら、炭治郎もかなめに続いた。
「おにく!」
飛び上がって喜ぶかなめの口に、箸で一切れ差し出した。その小さな口に誘われていく肉は、ほんの一瞬の間に溶けて消えたように、彼女の胃袋におさまった。もっとちょうだいと騒ぐ子に、次から次へとお肉が消えて、気が付けば皿は空っぽだ。ぐうと鳴るのは炭治郎のお腹で、かなめは「おとうしゃん、おとうしゃん、おにく!」と、空の皿を振り回している。
「かなめちゃんはよく食べるわね、立派だわ!」
そう言って、甘露寺さんはかなめの頭をいいこいいこと撫で擦る。
「ええ、本当に……誰に似たのやら……」
困ったものですと微笑む炭治郎の手に、ほんのりとあたたかい紙皿が渡された。甘露寺さんは、かなめの頭を撫でているから、彼女ではない。振り返ると、バーベキューの器具の前にいたはずの杏寿郎が笑みを浮かべて、炭治郎の背後に立っていた。
「甘露寺、おれたちも腹ごなしといくから、しばらくかなめのことを頼む」
「え、でも甘露寺さんは妊婦さんで……」
戸惑う炭治郎に、杏寿郎はにっかりと笑った。
「伊黒もいる、それに胡蝶も宇髄も、みんないる。心配はないさ、腹が減っているんだろう?」
かなめは、美味しいお肉と優しいお姉さんたちに囲まれて、ニコニコと嬉しそうに跳ねまわっている。
その様子に目を細めて、杏寿郎と共に、ベンチに腰を下ろした。桜の下で、金獅子の鬣にも似た彼の髪は、実に眩しく、神々しい。いや、空腹時に食料を差し出されたのだから、彼であろうと誰であろうと、神様に見えてしまうのかもしれないけれど。
「疲れたか?」
なかなか肉に手をつけない炭治郎への気遣いの言葉は、あたたかい。ふっと、笑みが溢れ落ちる。
「多少は……でも、何だか感慨深くて……」
紙皿を手にしたまま、この目は愛おしい子供のことばかりを追っている。宇髄先生がしゃがみこんでは、かなめに力作だというネズミのおもちゃを渡しては、そんなのいらないと彼女に無碍に叩き落とされてしまっている。こらかなめ、そう言い出してしまいそうな唇に、杏寿郎の唇がほんの少しだけ合わさった。
舞散る花弁は、周囲からこの光景をうまく隠してくれただろうか。
ぽっと頬に熱が灯った炭治郎の肩を軽く抱いて、杏寿郎も同じようにして赤い顔で俯いた。言葉こそなかったけれど、二人は確実に幸せを語り合った。
彼の大きな手のひらが触れ合った部分から、次々に幸せが込み上げてくる。このぬくもりが何よりも愛おしいことを覚えている。力強くて、とびきり優しいあたたかさ。
最初にこうやって抱き締めてくれたのは、学生の頃だ。先生好きですと告白して、君はまだ分化もしていないのだから、自ら道を狭めるようなことはしなくてもいい、そう言いながらも、彼は少年でしかない炭治郎の肩を抱き寄せてくれた。例えベータであっても、先生を好きでいることは変わらないですと、目を真っ赤にして泣く子供が憐れにでも見えたのかもしれない。それでも、泣いている子供を諭すでもなく、ただ黙って受け入れてくれたことは、今でも胸に残っている。
「美味しいか?」
「あの……俺、自分で食べられますって……」
まるで子供のように、口元へとお肉が宛てがわれてむくれてみても、君が可愛いからだと言われたら、照れくさいながらも受け入れるしかない。
「あーまま! ずるーい!」
遠くから自分たちを見ていたかなめが、走ってやってくる。向こうでたくさんごはんを食べたのに、それでも足りないのだろうか。
いや、きっと。
両親の仲睦まじい姿が、本能的に嬉しいのかもしれない。
かなめが一歩、また一歩と世界へと踏み出していく。同時に、自分たちも同じだけ歩いていくのだろう。その速度は実に退屈で、途方もなくて、終わりなんてないだろうけれど。隣り合う体温から伝わる愛おしさが、これから先も、ずっとずっと支え合って生きていけることを教えてくれている。
「杏寿郎さん、俺……あなたに、そしてかなめに会えて幸せです」
「うん……」
桜に彩られたこの光景を、これから先きっと何度も見ることになるのだろうという確信がある。だから炭治郎も、杏寿郎も、お互いの指に指を絡めて、愛おしい我が子のもとへと、一歩、足を踏み出した。

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