あらすじ
死ネタを含めた、読む人を選ぶ三作を集めた短編集になります。
煉獄杏寿郎の死後、炭治郎はどうしても彼の死を受け止めきれずにいた。
悲しみに暮れる中、どうすれば彼の死を受け入れられるか、彼のことを覚えていられるのか。
その答えを知るために、彼は欲した。
煉獄杏寿郎の骨を。
(約4,000字)
願いを喰む
2024.5.16執筆
「どうか、お願いです」
自分は傷も癒えておらず、病床に伏せってばかりで、今だ機能回復訓練にも向かえない軟弱者ではありますが。
「どうか、どうか」
祈るように、傷だらけの指先で虚空を掴もうとする。診察に訪れた胡蝶しのぶの苦々しい顔を傍らに、誰に願うでもなく、炭治郎はうわ言のように繰り返した。
「あの人の──を下さい」
鬼殺隊、最高位でもある柱の存在は大きい。柱とは、類稀なる才能を持ち合わせる、或いは、常人以上に心身を鍛え上げた人間が登り詰める──神職ではないが──下級隊士からすれば、神にも等しく見えたかもしれない存在だ。彼らが戦地に赴けば指揮も高まり、誰よりも早く鬼の首を討ち取ることができる。
故に、柱の死が与える影響力もまた大きいと言える。
炎柱、煉獄杏寿郎の死は、隊士たちに深い悲しみをもたらした。隊士だけではない、鬼殺隊を統べるお館様も、他の柱たちも、隠の者も。生前の彼を知る者は誰しも、煉獄杏寿郎の死を嘆き、その胸に涙を落とした。
彼と最後の任務に赴いた竈門炭治郎もまた、深い悲しみに暮れていた。鬼殺隊に死はつきものだ。わかってはいる、いつ何時、自分も命を落とすかも知れない。それでも、煉獄杏寿郎が最期に見せた生き様と、竈門炭治郎たちに託した心を前にして、どうして平気な顔でいられるだろうか。深い傷を負った腹の痛みよりも、体中に走る夥しいほどの傷よりも、あの人が受けた痛みのほうがずっと強かったに違いない。それなのに、筆舌に尽くしがたい痛みの中で、彼は陽だまりのように微笑んでくれた。勿体無いほどの言葉を託されたのだ。
炭治郎の頬に、一筋の涙が伝い落ちた。
蝶屋敷の廊下を壁伝いに歩きながら、炭治郎は今一度、今一度と息を吐く。あの人の死後、不覚にも昏倒していた時間が今はとても惜しい。あれだけの時間があれば、まだほの温かい彼の遺骸に触れることもできたかもしれない──或いは……。
「炭治郎くん、何度お願いに来られても、それは承諾出来兼ねます」
息も絶え絶えに、胡蝶しのぶのもとに訪れた炭治郎を診察台に横たわらせながら、彼女は伏し目がちに首を緩く振った。
「そこを、なんとか……お願い、します……っ!」
炭治郎は、診察台の上から身を乗り出すように懇願した。今にも床に転げ落ちそうになる彼の肩を押して、胡蝶は常にあるはずの笑顔を忘れて、険しい顔で炭治郎を見下ろした。
「人を弔うということは、故人のことを思い浮かべるだけでも充分できます。今はとにかく、自分の身体を大切にしてください──君は死にたいのですか」
ぐっと肩を抑え込まれて、炭治郎は脱力したかのように仰向けに寝転んだ。どうしても、と、唇が震える。
「どうしても、どうしてもなんです……ほんの少し前のことなのに、俺はあの人のことを少しずつ忘れていってしまう、言葉は覚えていても、どんな匂いで、どんな声で、どんな顔をしていたのか、忘れてしまう──だから……」
炭治郎は、込み上げてくる涙を抑えることもせずに、濡れた目で胡蝶を見上げた。
「煉獄さんの骨を、俺にください」
死者の骨を強請る、強欲な隊士だと、自分でも呆れている。それでも、彼を知り、彼と触れ合える縁(よすが)がそれしかないのだから、仕方ない。少しずつ怪我の快復が進み、歩けるようになった頃、今が好機とばかりに蝶屋敷を飛び出した。
胡蝶から外出の許可は出ていなかったが、歩けさえすればどうにかなると思ったのだ。何せもう、一刻ですら惜しい。どこでどんな風な葬儀が執り行われたのか、彼はどこに埋葬されるのか、すでにもう、冷たい土の下に埋まっているのか。そのどれもが不明なのだ。胡蝶しのぶは、何も手がかりになるようなことを炭治郎に伝えなかった。
だから、自分の足で知り得たかった。
煉獄杏寿郎の鴉に先導してもらいながら赴いたのは、彼の生家だ。胡蝶の許可が下りないのであれば、肉親から説得するのも手だろうと考えた。
しかし、簡単なものではなかった。
彼の父親は、最愛の息子の死を憐れむどころか、死んで当然であると罵倒した。あの人を、あの高潔な人の立派な死を愚弄する彼の父親に、炭治郎は怒りを覚えた。そうして、元柱である煉獄杏寿郎の父親に頭突きを一発食らわせることが、できたのではあるが。
「炭治郎さんにこれを……」
煉獄杏寿郎の弟、千寿郎が目を潤ませながら手渡したのは、あの人の刀の鍔だった。炎を象った鍔だ。こんな大切なものを頂けないと首を振ったけれど、自分は、この無機物よりもずっと大切なものを得ようと藻掻いている。震える手で、形見である鍔を受け取った。それは然程の重みもなかったはずなのに、手の中でずしりとした存在感を放っていた。
彼の名を口にしながら胸に抱いたそれは、心を熱く、燃え滾らせていくようでたまらなく、炭治郎は一人彼を思って泣きじゃくった。
そんなものだから、あの人の骨の在り処を聞くことは、ままならなかった。
それでも、あの人の鍔であっても、彼の一部に等しい存在であるらしい。鼻を寄せると、あの夜の死闘と、最期の色濃い残り香が炭治郎の肺を満たした。
それから、怒涛のような日々が行き過ぎた。遊郭に潜入し、あの人の言葉を胸に鬼と戦い、満身創痍ながらも鬼の首を斬り落とした。
刀鍛冶の里でも、あの人の想いがこの足を奮い立たせた。そう、どんな時でも彼は近いところに居た。鍔という、一見すれば彼とは何の関係もないそれが、炭治郎を奮い立たせた。
けれど、戦う度に匂いは薄れていく。飛び散った鬼の血や、自身の血で、鍔に残っていたあの人の欠片はいつの間にか消えていった。心を燃やせという声だけが耳に残り、振り返っても彼の顔を思い出すことができない。
もしも。
あの人の骨に触れ、口づけたなら、自分はあの人のすぐ近くに居られるのではないか。あの勇ましい人の背に抱きついて、打ち震えるほどに熱い人の舌を舐るように、その遺骸に──遺骨に──口づけたなら。そうすれば、この無機質な鍔よりも、もっとずっと深く、あの人の思いごと命を繋いでいけるのではないか。
そういう迷妄が、いつまで経っても消えてくれない。
どうか、どうかと、虚空に手を伸ばす。
どうか、あの人の生きていた証を。
「煉獄の墓?」
多くの犠牲を払い、全ての鬼の元凶である無惨を倒してから程なくして、炭治郎は病床を訪れた宇髄に尋ねた。煉獄さんのお墓はどちらですか、と。
「目覚めて早々、言うことがそれかよ、変わってんなお前」
ちょうど、見舞い客は彼だけだった。キラキラと派手に飾り付けた眼帯の輝きに、炭治郎は時折眩しそうに顔を顰める。
「煉獄の墓は歴代の柱と、死んでいった隊士たちの墓と一緒だよ、一人でいるわけじゃねえから安心しな」
「そう……ですか……」
枕に深く頭を埋めた炭治郎に、宇髄は片眉を上げた。
「不満そうだな、まるでそんなことはどうでもいい、みたいな顔だ。……言いたい事があるなら、さくっと言っちまえよ、五月蝿い奴らが来る前によ」
「……宇髄さん……」
炭治郎は、少しだけ深く息を吸ってから、言葉を紡いだ。宇髄は最初こそ、かわいい後輩の頼みを楽しむように耳を傾けていたが、次第にその顔を険しいものに変えていった。まるで、あの日の胡蝶しのぶのような、痛切な色を湛えていた。
「お願いします……これ以上のわがままはもう、言わないつもりなので……」
片方の視力で見る世界は、とても狭い。道中、何度も足が縺れ、その度に転倒した。それでも炭治郎は、片腕でどうにか身を起こし、一人山奥へと足を進めた。
妹である禰豆子や、仲間である善逸、伊之助には鬼殺隊隊士たちの墓参りであると告げた。そこに炎柱の墓もあるのだと付け加えれば、彼らは心配はすれど、止めることはなかった。何せ、あの人が亡くなってからずっと、あの人の形見を慈しむように目でなぞっていたのだから。きっと誰の目にも、明らかだっただろう。
ただの憧れや尊敬などではない、腹の奥底に溜まったどす黒いものの存在──執着と言うべきか──彼の言葉を標として歩んできた、深く彼に拘泥する炭治郎の姿を、皆、目の当たりにしてきただろうから──。
宇髄に教えられた通りに、鬱蒼と生い茂る森の中を進む。獣道のような、歩くのもやっとというような道の先に、果たして墓はあった。
政府公認の組織ではない鬼殺隊の墓は、人里離れた、静かすぎるくらいひっそりとした場所にあった。人々は知らない、誰も鬼のことを、また、鬼と戦い命を落とした人たちのことも。夥しいほどの墓石が、鬼殺隊の歴史を物語っている。
その中で、比較的新しい墓石の名前を、ひとつひとつ確認する。あの人の名前は何であっただろうか。炎のような、燃え滾る目をしたあの人の名は──。
「煉獄杏寿郎……」
柱だからといって、仰々しい墓ではなく、他の隊士たちと遜色ない墓石の側面に、その人の名が刻まれていた。目で何度もその名をなぞり、ゆっくりと膝をついて手を合わせる──片腕しか動かないけれども。目を閉じて、あの人を思い浮かべる。顔はもう、霞がかかったみたいで、思い出すことはできない。
どうか、どうかと願いながら、目を上げる。そこにはつるりとした墓石があって、彼の名が刻まれているだけだ。辺りを窺うこともなく、地面に目を落とす。ほんの少しだけ墓標の下の土に指先をめり込ませたけれど、刀を持たなくなった手に、どんな力があると言うのだろう。
この下にあなたはいらっしゃいますか。
「煉獄さん……」
地べたに座り込み、硬い土の下に問いかける。返事なんてあるはずもない、本当にそこにあの人の骨が埋まっているのかもわからない。指先で掻いた土を捏ねるように引き寄せて、摘み上げる。それを徐に口もとへと引き上げたが、草や苔、虫やその死骸、また、土の中に潜む菌の存在を鼻に感じて、土くれを手にしたままその腕をゆっくりと下ろした。
聖者の墓を暴く愚行など、やはりどうあってもできる気がしない。まして、彼が静かに眠る場所を荒らすことなどできない。
穿り返した土を均し、今一度と墓を見上げる。
その時、生い茂る木々の合間から零れ落ちた陽光が一筋、その墓だけを照らし出した。それは、ただの偶然であるし、まして死者がこの世に現れることはないのだけれど、そこにあの人が居るような気がして、炭治郎は畏れを抱きながら深く、息を吐いた。
あの人の骨を取り込んだわけでもないのに、もう切羽詰まったように彼を追い求める気持ちは不思議と消えていた。変わりに、胸の奥底で燃え続けている想いに気が付いて、そっとそこに手を当てた。
ずっと昔、あの人の鍔を遺志と共に受け継いだ日も同じようにここに手を当てていた。その時は只々、彼を亡くしたことに悲観し、咽び泣くことしかできなかったけれど──今は──。
墓を撫でていた光の筋が、揺れるように炭治郎の頬に触れた。それは、炭治郎を想っている誰かの指先のように優しく、零れ落ちる涙を掬い取るのだった。

※コメントは最大1000文字、50回まで送信できます