死んだ天使は、夜を越えるのか
1.屋上にて、死を数える夜
都会の夜空に散らばる星は、限りなく少ない。それでも、見上げた乏しい星の光に吸い寄せられるままに、ビルの屋上まで”彼”は駆け上がった。心臓が破れようとも、足が挫けようとも、それでも構わない。縺れそうになる足を叱咤しながら夜空への階段を登り、”竈門炭治郎”は深い夜に近い場所へと辿り着いた。
遠く聞こえるクラクション、車のテールランプ、街灯の煌めき。街は、こんな夜でも輝いている。そこかしこに人の息遣いが聴こえてくるようで、目眩がする。
ふと、屋上の暗がりに人影が見えて──鼓動が跳ねた。人影はもうすでにフェンスの向こうにいた。
「危ないですよ」
上がった息を整えながら、先客に声をかける。自分がどうしてこんなところまで来たのか忘れてしまったのか、それともそれが炭治郎の持つ優しさのせいなのか。彼はフェンス越しに、暗闇の中の人影に静かに声をかけた。
「君だって、同じだろう」
やけにハキハキとした声が返ってきた。図星を突かれた思いで、炭治郎は口篭る。すると僅かに強い風が吹いて、人影の長い髪が舞い上がるように揺れた。心細い月明かりよりもずっと明るく、星空にも似た輝きを持っていた。
「ここから、飛び降りてみせようか」
「な、何を言って」
「君が今、望んでいることだろう」
「……っ!」
勢い余ってフェンスを掴んだが、見上げたフェンスはとても乗り越えられそうにない。途方もない距離に思えた。何が。夜空までの距離が。すると、突然夜空にふわりと人影が飛んだ──地上ではない、文字通り空に。その影は飛ぶようにフェンスを越えて、炭治郎のもとに舞い降りた。突拍子もなく、真っ白な翼を翻す──純白の翼を。
「死ぬにはまだ若過ぎるな」
「……そんなの、勝手でしょう」
カラリと笑う人は、いや──この場合は天使と呼ぶべきなのか。普段ならば受け入れられない超常現象も、死を前にした炭治郎にとっては、どうだってよかった。理屈はもう頭上を通り過ぎてしまった。今更、翼が生えた人間がいようと、いまいと、もうどうでもいいのだ。
「天使だとしたら、俺を迎えにでも来たんですか」
自嘲気味に笑う炭治郎に、天使は人の良い笑みを浮かべる。月明かりの下の天使は、随分屈強な体つきをしている。あの手足で炭治郎を捕らえて、地獄やら天国やらへ導いてくれるというのだろうか。
「いや、君はまだ夜の縁で迷っている──迎えることはできない」
「じゃあ、そこをどいて下さい」
「君には越えられるのか、この夜を」
身長よりもずっと高い位置まで聳え立つフェンス。明る過ぎる夜の街、遠くで酔っ払いたちの笑い声がキンと響いて、ドクドクと耳もとで潮流のように血が駆け巡る。足が、コンクリートの地面に張り付いて動けない。天使は笑うこともなく、そんな炭治郎の傍まで悠然と歩いてきた。白い翼は揺れ、風に羽根が靡く。息をする度に微細に動く翼は、作り物ではないことを示していた。
「生きろ」
たった三文字の言葉。たったそれだけの言葉に、炭治郎は頽れるように膝をついた。涙がまず頬を濡らし、みっともない叫びが夜を切り裂いた。
人生で最も死に近付いた夜は、不可思議な力によって引き上げられるのだった。
朝日が瞼を擽って、炭治郎はぼんやりと目を開いた。見知った天井、嗅ぎ慣れた部屋の匂い。窓からの陽射しで部屋の中が少しずつ明るみになっていく。そこには変わらぬ日常がある。
全ては夢の中の出来事だったのだろうか。死に場所を求めて夜の街を彷徨ったことも、天使に出会ったことも。
気怠い身体を起こして、布団の上に座り込む。六畳ほどの和室の隅には、いくつかの布団が整然と積み上げられて、ビニール袋で丁寧に口を縛ってある。季節外れの毛布やストーブも全て埃よけのビニールが覆っている。物言わぬそれらに目を向けて、炭治郎が重い吐息を零した時だった。
「おはよう! よく眠れただろうか!」
とても元気な声が響いて、跳ねるように顔をあげた。朝日のような眩しい翼を背負った、金髪の屈強な男がお玉を持って仁王立ちをしていた。おまけのように、エプロンまでしている。キッチンの壁に掛けてあった炭治郎のエプロンだ。青いデニム生地でできた、よくわからない動物のワッペンがついてあるエプロンだ。
「何で……」
炭治郎は立ち上がれずに、布団の端を握り締めた。
あれは夢だったんじゃないのか、天使なんているはずない。
「さあ、朝食にしよう! 食事は生きることだからな!」
わははと笑って、天使は翼を翻しながら階下へと降りて行ってしまった。鼻が、香ばしい料理の匂いを捉える。卵焼きと、焼き魚だろうか。シンプルに空腹を訴えてくる腹を見下ろして、唇を噛みしめる。
夢でなかったら、あのまま飛び降りてしまえばよかった。
一階のキッチンへ向かうと、調理台として使っていたテーブルの上にほんわかと湯気を立てる朝食が並べられていた。鮭の塩焼きに卵焼き、ほうれん草のお浸しにはかつお節がかけてあり、ほかほかのご飯と味噌汁が添えられている。天使は窮屈そうに翼を萎ませながら、さあどうぞと物置き代わりにしていた椅子を引いた。ゴミで溢れていたキッチンだったはずなのに、思い出であふれていたキッチンだったはずなのに。
「何でこんなことを……」
「君に美味しいものを食べて欲しくて」
「そんなことしなくたっていいです!」
炭治郎は苛立ったように足を踏み鳴らし、天使に噛み付くように声を張り上げた。
「余計なことをしないでください! 俺は一人だって生きていけるんです!」
「死のうとしたくせに?」
天使の目は穏やかだが、言葉は辛辣だった。テーブルの上のものを手で払い除けても良かったが、そうやって食べ物を粗末にすることは出来なかった。
ピンポーン。
ふと、間延びした呼び鈴の音が響いた。キョトンとした目をする天使から意識を逸らす。現実だと認めたくなかった。炭治郎はこの奇妙な天使から逃げるように、玄関へと向かった。
「おはよう、炭治郎。元気にしとるか」
「鱗滝さん……」
玄関の引き戸を開けると、叔父である鱗滝左近次が柔和な笑みを浮かべていた。手には紙袋を提げており、それをずいと炭治郎に手渡した。
「お裾分けだ、食べることは生きることだからな」
つい先程の天使と同じようなことを言うものだから、思わず振り返ってしまった。そこには、いつの間にかあの天使がついて来ており、炭治郎に向かって小首を傾げていた。追いかけて来たのだろうか。足音すらしなかった。しかし、この異常な存在の言い訳をどうしようか。天使なんて馬鹿げた生き物、いるはずもない。けれど、あの翼はどう考えても本物で──。そうぐるぐると考えていると、鱗滝は朗らかに笑った。
「美味そうな匂いだな」
彼は炭治郎を真っ直ぐに見つめていて、天使には目もくれない。まるで見えていないかのように、普段と変わらぬ穏やかさを見せた鱗滝は、炭治郎の頭を優しく撫でた。
「困ったことがあったら、いつでも儂らを頼れ。ご飯の最中に悪かったな、たくさん食べるんだぞ」
鱗滝が道の向こうに消えて行く姿を見送ってから、炭治郎は狐につままれたような心地で家に戻ってきた。紙袋を携えキッチンへ向かうと、やはり天使がいる。天使はいくつもの椅子から、炭治郎の席と向かい合う椅子に腰掛けて、こちらを振り返って笑う。
「さあ、朝ごはんを食べよう!」
言いたいことは山ほどあったが、喚き散らすほどの元気はなかった。仕方なく席について、手を合わせる。人が作った出来たての料理なんて、久しく食べていない。その事実に、箸を口に運びながら目頭を熱くした。
失うのは一瞬だった。
ゴールデンウィーク。父が運転する車で炭治郎たち一家は出掛けていた。父と母、幼い妹弟たちが同じ車に乗って、炭治郎は長兄で身体も大きいこともあって、叔父である鱗滝の運転する車に乗っていた。鱗滝の車には従兄妹の錆兎と真菰、幼馴染みの冨岡義勇も同乗していた。自分より少し年上の従兄妹たちとは昔ながらの付き合いで、炭治郎たち一家と旅行に行くこともしばしばあった。だからその日も、毎年恒例の旅行に胸を弾ませていたのだ。炭治郎の父が運転する車に、逆走してきた暴走車が突っ込んでくるまでは──。
焼き鮭を半分ほど残したところで、炭治郎は箸を置いた。俯いた視界、テーブルの下にじわじわと流れ出るガソリンと血の海が見えた気がして、これ以上食事を進められなかった。
「うむ! 半分でも食べられたのなら、重畳だ!」
片付けは俺がするからと、天使が席を立つ。背中にぴたりと張り付いたような翼が机上を掠め、食器が引きずられて床にダイブした。割れた音に大仰に驚いた天使が振り返ると、今度は戸が開きっぱしだった食器棚からコップがいくつか引っ張られ、床に散らばった。その様子は、まるで自分の尻尾を追いかける犬のようで。
「ふ……」
炭治郎は、いつの間にか吹き出していた。まるで漫画のようなコントじゃないかと、笑ってしまった。
「ああ、やっと笑ってくれた!」
天使は、散らかったキッチンに頭をかきつつ、ニッカリと笑みを浮かべた。
「君には笑顔がよく似合う!」
笑いを引っ込めながら、炭治郎はふいとそっぽを向いた。向くしかなかった。この家に笑い声が戻らない事実から、目を逸し続けていたかったからだ。
「俺は、煉獄杏寿郎だ!」
天使は、大きな翼を小さく背中に折畳んでから、自己紹介を始めた。キッチンの片付けのために箒を持ってきた炭治郎に倣って、天使は雑巾とバケツを持ってきた。いや、名乗ったのだから煉獄と呼ぶべきか。
「煉獄って、天国と地獄の間にある場所のことでしょう。死者が浄化されるところで……そういう天使なんですか」
「お、やっと俺に興味を持ってくれたか」
「黙っていたって、喋りかけてくるんでしょう」
「ご名答、俺はよく喋る男だからな」
「何で天使がここにいるんですか」
「君が、今にも死にそうな顔をしていたから」
塵取りでガラスや磁器の欠片を粗方掃いて、雑巾で床を拭えばキッチンはよりきれいになった。
「どうして死のうとしたんだ?」
「あなたには、関係ないでしょう」
素っ気なく言い放っても、煉獄はにこにこと人の良い笑みを浮かべている。夜には気付かなかったが、毛先がところどころ赤く染まっていて、海老天のようになっている。眉も桜花弁のように先が二股に分かれていて、こちらを見下ろす目は金環が嵌まっているようだった。人間離れした容姿だ──やはり天使なのか。
「どういう理由であれ、自分で自分の命を奪うのは罪深い。しばらく俺は、君が生きる手伝いをしようと思う!」
「……死神だったらよかったのに」
悪態をついても、それでも煉獄は微笑みを絶やさない。
「手伝いなんて結構です、もういいんです、もう、疲れたので」
「広い家だな!」
煉獄は、掃除道具を片付けながら家を闊歩する。こじんまりとした一軒家だ。六人兄弟と両親が住むには狭過ぎる家だったが、今は煉獄の言うように、炭治郎には広過ぎた。
「勝手にしろ」
言い置いて、炭治郎は二階へと上がる。当然のようについて来る煉獄に「ついて来ないで下さい!」と一喝したが、それでも男はついて来る。
「君がいつ自殺を決行するか、わからないからな」
「関係ないでしょう」
「あの夜に出会えたんだ、関係ないことはない」
「関係ないでしょう! 俺の家を我が物顔で歩かないで下さい!」
振り返りざまに吐き散らして激昂しても、煉獄はどこ吹く風だ。あまりにも腹が立って、その顔を叩いてやろうかと手を振り下ろしたのに、それは虚しく宙を裂いた。いや、正しくは煉獄の身を裂いた──はずだった。
「もうそんなに泣くんじゃない」
煉獄の身体に触れたはずの手は、虚空を掴む。手のひらが入り込んだ煉獄の身体は、ホログラムみたいに透明だった。それはやはり、彼が人ではない証であって、天使である証明であって。
「うわあああ!」
叫び声を上げて、階段から転げ落ちる。
落ちる。落ちる。
人生を転げ落ちていく。家族をいっぺんに失い、生きる意味も何もかも失った自分には、死という甘さが必要なのだ。それなのに、炭治郎はこの命を惜しむように手を伸ばした。命を持たない天使に向かって、その手を掴みたくて手を伸ばした──。

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