死んだ天使は、夜を越えるのか - 2/7

2.朝はまだ、名を持たない

ふっと意識が舞い戻って来て、終わりなど来なかったことを知る。薄暗さと壁の落書きから、使っていない和室だと検討がついた。頭の下に座布団が差し入れてあって、お腹にはブランケットがかけられている。
「母さん……」
いるはずのない人を期待したけれど、部屋のあちこちにあるビニール袋がその期待を裏切っていく。家族と暮らした時間は戻って来ない、もう二度と。重い吐息を零しながら起き上がると、洗濯機の電子音が響いた。母さんと、小さな声が漏れる。
縋るように、ひたひたと廊下を通って脱衣場に向かうと、白い翼の天使──煉獄が、洗濯機の蓋を開いていた。洗濯ものはすでに全て籠に入れてしまったらしい。
「やあ、気がついたか」
落胆の目で煉獄の手もとを見る。男一人分の洗濯ものは、籠にぴったりと収まっていた。その籠を奪うように取り上げて、煉獄に背を向ける。
「帰って下さい」
「まだ帰れないんだ」
天使に帰る場所なんてあるのだろうか。
そう言えば、先程自分は階段を転がり落ちていなかっただろうか。その割には身体はよく動いている。怪我一つしていない。あれもまた、夢だったのだろうか。煉獄の身体に触れることができなかったことも──。
「炭治郎」
教えたこともない名を呼ばれて、籠を抱えたまま振り返る。彼は、廊下に並んでいる大小様々な額縁を眺めているだけだった。学校の作文コンクールでもらったものや、何でもない賞状の類を額に入れて飾ったのだ。自分だけのものではない、弟や妹たちのものだってある。どうしてもそれだけは外せなくて、壁に掛けっぱなしだ。賞状を飾った時の、妹弟たちの喜ぶ声まで引き剥がしてしまいそうだったから。
この家には、家族の思い出が色濃く刻まれている。
そんな廊下を歩く異物に、炭治郎の顔は険しいものになっていく。我が物顔で歩いて欲しくないのだ。家族との思い出をかき乱して欲しくなかった。
「君の死にたい理由は、何だ」
問いかけてくる言葉に背を向けて、縁側からつっかけを履いて庭に出る。猫の額ほどの庭先の物干し竿に、手際よく洗濯物をかけていく。一人分だから、あっという間だ。手応えのない家事に、俯きがちになってしまう。仕方のないことじゃないか。人は、一人では生きていられない。
「炭治郎、良かったら君の理由を教えて欲しい」
偶然ではない、確かに炭治郎の名を呼んだ煉獄は縁側にどっしりと腰を下ろしていた。そよそよと風に翼が揺れている。庭先に飛んでくる雀たちは、良いとまり木を得たとばかりに煉獄の肩や翼に乗ってしまっている。常軌を逸した存在なのかと、籠を地面に落として涙を零す。いるのかどうかわからないような、不確かな存在に口を閉じていたところで、どうにかなるものでもない。死んだ人が帰って来ないように。
「生きているからですよ、俺が……俺だけが……。ああ、そうだ……俺が、死ねばよかったんだ……」
吐露してしまえば単純な理由だった。まだまだ先のある未来を持っていた弟や妹たちが死んでしまうよりも、もっとずっとそのほうがよかったのだ。自分が代わりに死んでいれば、未来はもっと違った形になっただろうから。
「そうか」
否定もせずに首肯する煉獄の前で、炭治郎はみっともなく肩を揺らした。袖口で涙を拭っても、拭っても涙が溢れて止めどない。しゃくり上げるように泣いている炭治郎の頭に、ふと、あたたかなものが触れた。涙に濡れた目で見上げれば、煉獄が炭治郎の頭をゆっくりと撫でていた。悲しそうに目を細める煉獄の目にも、涙が溜まっていた。だから、その胸を借りるように彼の胸もとに顔を埋めて炭治郎は泣いた。そのあたたかさに包まれるように、声が嗄れるまで泣き続けた。

夕方、キッチンの冷蔵庫を覗く煉獄の背があった。エプロンの紐で翼が広がらないように留めている。今朝のことを気にしているようだった。
「食材が少ないな! 買い物に行ったほうが良さそうだ!」
声が大きいのはデフォルトのようだ。超常現象に慣れてしまった炭治郎は、少し赤い目もとを擦りながら「食材は買ってきてくれるので」と、律儀に煉獄に応えた。
「誰が買ってきてくれるんだ」
「親戚が……」
「君は買い物に行かないのか」
無言は肯定したも同じだ。首を傾げる煉獄には構わず、今朝方叔父である鱗滝に手渡された紙袋を冷蔵庫から取り出す。紙袋ごと突っ込んだら不衛生じゃないかという煉獄の的確な突っ込みには無視をして、紙袋からタッパーを取り出した。筑前煮のようだ。もうひとつのタッパーには、手羽元の煮付けが入っている。それらをレンジに入れて加熱して、その間に食器を用意する。ふと、今朝はどうだっただろうかと手が止まる。
「煉獄さんは、ご飯食べますか」
「いや、俺は食べないな」
いや、食べられないと言うべきかと顎を撫でる煉獄に、天使だからそんなものかと納得した。天使はご飯を食べない。そんな知恵だけが身に付いた。実用性はないけれど。それにしてもと、炭治郎は不思議に思う。煉獄と居ると、あんなにも自暴自棄になっていた心が安らいでいる。先程も彼に縋って泣いて──そこまで思い出して、額に手を当てる。大の大人が、みっともなく泣き喚いてしまった。情けないところを見せてしまったと、苦々しく思う。
「俺だけ食べるのも味気ないから」
言い訳めいたことを言って、夕食の支度に取り掛かる。煉獄が本当に食べようと食べまいと、それは関係なかった。単純に誰かと一緒に食卓を囲んでみたくなったのだ。ただ、それだけのことなのだ。
「煉獄さん、美味しいです」
ふっと湧いてきた言葉をそのまま口にする。向かい合うように座っていた煉獄は、少しだけ目を細めると、意外にも小さな声で「ありがとう」と返してくれた。
過ぎてしまえば、どうしてあんなにも夜に焦がれて駆け出していたのかよくわからない。二人分の食事をぺろりと平らげてしまうと、満腹感が死にたいという気持ちを無くしてしまうのかもしれない。重たい腹を抱えて居間に寝転がる。煉獄は、後片付けは任せておけと言ってキッチンに向かってしまった。
食器の擦れ合う音、水が跳ねる音。確かに誰かがこの家に居て、誰かのぬくもりを感じる。
左腕を枕にして、横になる。一人きりの家はとてつもなく広く、もの寂しい色をしていた。けれど今、天使というわけのわからない存在が家に居る。それだけのことなのに、胸があたたかい。人の気配があるだけで、家はこんなにも居心地が良くなるのか。
埋められないのは、寂しさだけなのだ。
ふと、腹に何かが掛けられた気配がした。煉獄が、ブランケットを掛けてくれていた。食後の眠気に誘われて、そのお礼も言えないままに目を閉じる。かつて母親が自分に毛布を掛けてくれた、そんな思い出に浸る夢は、どうしようもないほどに懐かしいものだった。

両親はいつも仲睦まじく、共に開いたパン屋で働き続けた。炭治郎のすぐ下に禰豆子、竹雄、花子、茂、そして一番下に六太がいた。全員で六人兄弟だ。ご近所でも珍しい大家族だ。テレビの取材が来たこともある。朝早くから忙しい両親を支えるため、炭治郎は勉学の合間を縫うように家事と育児に勤しんできた。確かに忙しかったし、長兄だけが背負うには厳しい日々だったとも思う。贅沢はできなかった。我慢だってたくさんしてきた。
それでも、幸せだった。どんなに苦境に立たされても、炭治郎の一家は乗り超えて生きてきたのだ。
自分も──と、目を開ける。見慣れた天井に、オレンジ色の電灯がぼんやりと光っていた。
「寝て、しまったのか……」
食後にだらしない。
腹にかかっていたのは、お気に入りの毛布だ。そしていつの間にか、布団の上に寝かされていた。あの煉獄が運んできてくれたのだろうか。どうして彼は、こんなことまでしてくれるのだろうか。天使という、分かりやすい単語で説明できる気もしなかった。
辺りを見回したが、煉獄の姿はない。
「煉獄さん……」
薄明かりに向かって声を掛けたものの、返事はない。静かな夜だ。静か過ぎる夜に、息が震える。ああ、一人は嫌だ。嫌だ、誰もいない日々に堪えられない。逃げ出してしまいたい、こんな世界──。
「どうした」
床板を踏む音が聞こえて、暗がりの中から煉獄の声がした。たったそれだけのことなのに、泣き出してしまいそうになる。炭治郎は涙をぐっと堪えて、煉獄に向かって声をかけた。
「夜が、怖いです」
「眠れないか」
「逃げ出して、しまいそうになります」
静かな足音が近付いて、炭治郎の隣に腰を下ろす気配があった。煉獄だ。暗がりの中でも、煉獄の明るい目はよく見えた。まるで宵闇に光る梟の目のようだ。
「君が眠るまで、子守唄でも歌おうか」
「歌は、いいです」
ふいに、煉獄の手が炭治郎の手に触れた。確かめるように撫でられて、それに応えるように握り返す。あたたかい。
「じゃあ、しばらくこうしていよう」
「ありがとうございます」
そう言えば歯磨きを忘れている。なんて呑気なことを考えられるほど、穏やかな夜がやって来た。眠りの先へ向かう瞬間の恐ろしさは、この時ばかりは鳴りを潜めていた。

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