7.君と、この世界を生きたい
この世界に、自分だけが取り残されたような心地になる夜が、炭治郎は嫌いだった。
家族を全て亡くした日の夜の、途方もない喪失感を思い出すからかもしれない。夜が来るたびに無力感に苛まれ、身動きできなくなる。どうせ朝が来る、家族のいない朝が来る。それならばいっそ、夜のまま明けないでいてくれたら、誰もいない朝を迎えないで済むのに。炭治郎は、枕に頭を預けながら小さく吐息を震わせた。
「眠れないのか」
声がして、炭治郎は頭を横に僅かに傾けた。薄暗闇の中に見える見知った顔に、泣きたくなるほどに胸が騒ぐ。金朱の瞳は暗がりの中でも、明るく輝いて見える。寄り添うように同じ布団に横たわる煉獄のほうを向いて、炭治郎は小さく「はい……」と返した。寝返りを打つように身じろいだ煉獄は、そっと炭治郎の目もとに指で触れる。
「夜が怖いのか」
「……俺だけしかいない気がして」
「今でも」
指先はあたたかく、目尻に浮かんでいた涙を拭う。
「今でも、そう思うのか」
煉獄の問いに、炭治郎はうまく応えられなかった。隣には煉獄が居て、こうして些細な涙にすら気が付いてくれる人がいるというのに、それなのに、それでも夜が怖いなんて。炭治郎は静かに目を伏せて、煉獄の手に触れた。その大きな手に頬を擦り寄せるようにして、広い手のひらに口付ける。働き者らしい、新鮮な野菜の匂いがした。
「俺が、そばにいる」
抱き寄せる腕が背中に回り、炭治郎は煉獄の胸の中へと誘われた。ぬくもりを分け合う夜。以前にも何度かこんな夜があった。これから先も、この夜が来てくれるだろうか。炭治郎は、小さく鼻を鳴らしながら煉獄の胸元に顔を擦り寄せた。
煉獄の正体が人間で、天使でもないことは彼が入院していたことから容易に気が付くことができた。病床で身動き出来ないほど包帯まみれだった煉獄は、「事故に遭ったんだ」と他人事のように笑った。
公園からボールが飛び出してきて、それを追いかけるように走ってきた子供がいたそうだ。その子供めがけて猛スピードで向かってくる車に気が付いた煉獄は、誰よりも早くその子供を助けた、と──彼は、面白いエピソードのように話してくれた。
「笑い事じゃないでしょう! 一歩間違っていたら、あなたは……!」
白いベッドの前で泣きながら激高した炭治郎に、煉獄は少しだけ目を丸くして、それからゆっくりと目を柔らかく細めた。病室のベッドにみっともなく縋り付いて泣く炭治郎の頭を、煉獄は僅かながらに動く手で撫でてくれた。
「ありがとう」
それから、色々と話しをした。ずっと昏睡状態だったという煉獄が疲れて眠ってしまうまで、色々なことを話した。どうして天使になっていたのか。生前はどうしていたのか。
「生前って、俺は今も生きているよ」
「あ、そっか、そうですよね……」
他愛もない話しばかりだったが、煉獄とそうして話せることが炭治郎にとって何よりも嬉しいことだった。
忽然と姿を消してしまった煉獄が実は生きていて、また話しができることが、何よりも、何よりも。だから、再び眠りについてしまった煉獄の顔を見下ろしては、寂しさが募って泣いた。動かない彼の手を取って、涙で目を濡らした。様子を伺いに訪れた看護師と、この病室を教えてくれた冨岡義勇が来るまでの間──。
意識を取り戻した煉獄の快復は早かった。数カ月ほど昏睡状態が続いていたようだったが、その間に怪我や骨折は快癒していた。残る問題は、しばらく動かせていなかった身体のリハビリだったが、それも驚くほどの快復力で医者を圧倒させた。炭治郎が訪れてから二週間ほどで、煉獄は松葉杖なしに歩いてみせ、見舞いに来た炭治郎の腰を抜かせたほどだ。
「もう退院できるそうだ」
「そうですか……」
花々が美しい病院の庭園を炭治郎と並んで歩きながら、煉獄は朗らかに笑った。
「やっと、仕事に戻れそうだ」
「確か、レストランを経営されていたんですよね」
「ああ、よく覚えているな!」
「何だか、印象に残ってしまって……」
彼が意識を取り戻したその日に聞き知ったことだ。思い返せば、炭治郎の家で振る舞ってくれていた料理はどれも素人とは思えないほどの出来栄えだった。
「レストランに……」
炭治郎は一瞬だけ言葉を詰まらせて、俯いた。
「レストランでまた、いっぱいお客さんを喜ばせて下さいね」
「もちろんだ! 君も店においで、たくさん御馳走しよう!」
溌剌とした声音に、炭治郎は顔を上げることができない。今はこうして病院という場所で繋がっている関係だが、煉獄が日常を取り戻せば、この関係も終わる。なんとなく、続きそうな気がしていた。ふらっと病室に訪れて、どんどん元気になる煉獄に頬を緩ませる日々が、これからも続きそうな気がしていた。
馬鹿だ、そんなはずはないのに。
怪我はいつか治るものなのに。
ずっと治らないでいてくれたらなんて、願ってしまう自分がいる。
庭園で、ツツジの花が風に揺られていた。ふとそれに目を留めて、炭治郎は意を決したように顔を上げた。
「これからも、お元気でいてください」
うまく笑えただろうか。炭治郎はとにかく明るく笑おうと試みた。もう会えなくなる予感から目を逸らしたくて、とにかく口もとに笑みを浮かべた。
「炭治郎」
ふいに、片手を取られた。二人の歩みはゆっくりと止まり、庭園に穏やかな風が吹き抜けた。煉獄の真剣な眼差しが、炭治郎をじっと見下ろしている。
「炭治郎、君が好きだ」
繋いだ手が跳ねる。反射的に俯いてしまった炭治郎に構わず、煉獄は続けた。穏やかで優しい声音だった。
「俺はこれからも君のそばにいたい。君の笑う顔も泣く顔も、そうだな、怒った顔もまた見てみたい」
「な、に……を……言っているんですか、冗談はやめてください」
「冗談ではない」
くいと手を引かれて、手の甲に柔らかな感触を感じた。恐る恐る顔を上げて、炭治郎は耳まで真っ赤になった。なるしかないだろう、男の手を取って口付ける人を見てしまったなら。
「一緒に暮らそう、炭治郎」
その返事をどう返したのか、炭治郎はよく覚えていない。動揺し過ぎて言葉にならなかったのかもしれない。周囲に居た病人たちから祝福の拍手を贈られて、いたたまれない気持ちになったからかもしれない。
気が付いたら、あれよあれよという間に話しが進んで、煉獄はまた炭治郎の家に転がり込んできたのだった。
「おはよう、炭治郎」
そう言ってゆっくりと顔を近付けてくる煉獄に、炭治郎は反射的に顔を覆って「おはようございます!」と叫び、そのまま弾け飛ぶように洗面台へと直行した。起き抜けの寝ぼけていた頭も、あっという間に目が覚めてしまう。大きく肩で息をしながら、鏡を見上げる。そこには、恥ずかしいほどに真っ赤な顔をした自分がいる。思い返せば昨晩、眠れないのかと問われて彼の胸に顔を埋めたのだった。いくら眠気が無かったとは言え、やっていいことではない。男が、男に抱き締められて、それで安堵するなんてこと──。
炭治郎は、思いっきり顔を洗った。
赤みの取れない顔で台所へ向かうと、ほかほかのご飯が用意されていた。そして食欲をそそる良い香り。煉獄は嬉しそうに椅子を引くと、自然な動作で炭治郎を座らせた。そうして向かい側に腰を落ち着けた煉獄が、きれいに整った手を合わせて「いただきます」と挨拶をする。
「いただきます……」
煉獄に倣って、炭治郎も手を合わせる。天使であった煉獄は、ただ炭治郎の食事風景を眺めているだけだったが、今は違う。にこやかな顔はそのままに、同じ料理を同じテーブルで食べることができる。嬉しいことはではあるけれど、今朝方キスをされそうになったことを思い出すと、何とも言えない気分になってくる。好きだと、確かに言われたけれど、炭治郎自身がそれに応えた覚えはない。
ちらと煉獄の様子を盗み見る。退院した彼と一緒に暮らし始めて、一週間程度。天使だった頃も合わせれば数カ月ほどになる。けれど、彼が食事をする姿はまだ見慣れなくて、つい、魅入ってしまう。朝陽に煌めく金糸の髪は、毛先だけ燃えるように赤く、伏せた目は金粉をまぶしたような輝きを放っていて──その目が、炭治郎を捉える。そうすると、心臓がびっくりしたみたいにどくんと跳ねてしまう。
その意味を、知らないわけではないけれど──知りたくない気もしている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい……」
食事を終えると、煉獄は身支度を整えて仕事に向かってしまう。レストランで働くシェフなのだと言っていた。本来ならもう少し早い時間に仕事に向かうと聞いている。
「俺のことなんて、気にしなくていいですから……」
「君と一緒に食事がしたいんだ。君は寝ぼすけさんだから、そんなかわいい君を置いて仕事になんて行けないさ」
そう言ってはにかむ煉獄から、炭治郎はそっと目を逸らす。見つめていたら、縋り付きたくなってしまう自分がいる。自分のために時間をずらして出勤しているなんて、聞きたくなかった。頬が熱くて、熱くてたまらない。
「炭治郎」
「何ですか」
「キスをしてもいいか」
ひくりと肩が跳ねる。恐る恐る煉獄を伺うと、眩しそうに炭治郎を見つめていた。
「行ってきますのキスが欲しい」
「そ、そういう関係じゃないです」
「俺はそういう関係だと思ってる。いつも一緒にご飯を食べて、毎晩身体を重ねて眠っているのに、恋人じゃないなんて冷たいな」
「もういいですから、行ってきて下さい!」
顔を真っ赤にしてぐいぐいと煉獄の胸を押すものの、その手は見事に煉獄の手の中に囚われる。そうして、こちらが惚けている間に、彼は手のひらに音を立ててキスをした。手の中の、一番敏感な部分に触れられて、平気な顔なんてしていられない。
「……ぁっ……」
思わず甘い声が漏れてしまった炭治郎を見て漸く満足したのか、煉獄は惜しむようにゆっくりと手を離した。
「では、行ってきます。いい子にしているんだぞ」
「子供じゃ……ないです……」
最後にくしゃりと頭を撫でられて、そうして煉獄は出掛けて行ってしまった。炭治郎は、しばらく赤い顔をしたまま玄関先に突っ立ていた。一体、夜はどんな顔をして彼を迎えたらいいのだろう。
「恋人なんかじゃ……」
そう口にしながら、その場に蹲る。彼は炭治郎のことを好きだと言った。自分はそれに何と応えただろうか。同じ気持ちだと伝えたことはないはずだ。何も、何も言っていないのに、どうしてこんなに心をかき乱されてしまうのだろう。
「好き、なのかな……」
ぼそりと呟いた声をかき消すように、ふいに玄関の戸がガラリ開いた。
「どうした炭治郎、そんなところで」
「う、鱗滝さん!」
突然の訪問者に、炭治郎はそのまま尻餅をついた。
「いい顔になったな」
茶の間に鱗滝を迎え、温かいお茶を運んで来た炭治郎に、彼は嬉しそうに微笑んだ。どんな時も背筋をピンと伸ばして座る鱗滝は、炭治郎の微細な心情の変化を感じ取ってくれているらしい。幼い時からずっと顔を合わせてきた人だけに、炭治郎も嘘をつくことなどできない。
「煉獄さんのおかげです」
そう言って、鱗滝と向かい合うように腰を下ろした。鱗滝は茶をゆっくりと啜ると、「そうか、彼が……」と感慨深い様子で目を伏せた。
「煉獄殿とは、父親である槇寿郎殿からの付き合いではあるが、まさか炭治郎、お前とも交流があったとは驚いた」
「交流というわけでは……ええと、どう話したら……」
法螺話だと思われてしまいそうだったが、炭治郎は正直に今まで起こった出来事を鱗滝に話した。出会いから、少しの間の別れ、再会、そして彼に告白されたことまで話してしまって、さすがに話し過ぎたと炭治郎は熟れきった顔で俯いた。
「すみません、突拍子もない話しを……」
「いや、嘘のつけないお前のことだ、何もかもが事実だろう。そうか……煉獄殿のご子息と……そうか、そうか」
鱗滝は、湯呑みを手にしたまま深く息を吐いた。
「お前が逃げ出してしまいそうなほど追い込まれていたというのに、何も出来なかった儂らを許してくれ。いや、許してくれなくとも構わん。炭治郎、すまなかった」
湯呑みをちゃぶ台に起き、すっと頭を下げた鱗滝に、炭治郎はぎょっとして腰を浮かせた。
「頭を上げて下さい鱗滝さん! 何も、誰も悪くなんてないんです! 俺が、俺が悪いんです」
「誰も悪く無いと言うのなら、お前だって悪くはなかろう。そもそも、この家に一人きりにしてしまった儂らもいかんかったな……煉獄殿が天使という姿でお前のもとに来ていなかったら、今ここにお前はいなかっただろう」
「はい……」
「あらためて、煉獄殿には儂らからも礼を言おう。そして炭治郎、生きていてくれてありがとう。お前が生きてくれている、それだけが儂らにとっての幸せだ。つらかっただろ、苦しかっただろう。それでも今ここに、生きてくれていてよかったと、心から思っている」
「鱗滝さん……」
言葉が詰まって、声にならない。
「炭治郎、みんなのためにも幸せになるんだ。それがきっと、みんなを弔うための最善の手段だ」
涙が溢れて、溢れて止まらない。死んでしまった家族、もう会えなくなってしまった家族。そんな彼らにのために幸せになるなんて、考えもしなかった。ただずっと、彼らの場所に自分も行けたらなんて、そんな仄暗いことしか考えられなかった。炭治郎は、ぐいと腕で涙を拭った。
「いいんでしょうか、俺、俺なんかが幸せに……」
「お前が幸せにならんでどうする。炭十郎も、葵枝さんも、そして禰豆子、竹雄に茂、花子、六太。みんなお前が幸せになることを望んでいる。儂らだって、望んでいる。炭治郎、笑って過ごしてくれ。それだけが儂らの願いだ」
「鱗滝さん……っ!」
君が笑った顔が見たい、泣いた顔も怒った顔も、そう言ってくれた人の顔が思い浮かんで胸をぎゅうっと締め付ける。何かが許されたような気がして、炭治郎は声をあげて泣いた。鱗滝は、炭治郎が落ち着くまで静かに見守ってくれていた。それがどんなに心強いものなのか、炭治郎はやっと気が付くことができた。こんな単純なことにも気が付かないなんて、死への願望は如何程に恐ろしいものなのだろうか。善悪の区別すらつかなくなるほどに、人を狂わせる──末恐ろしい衝動だ。もう二度と、そんな場所に向かわないと、炭治郎は強く誓った。誰でもない、ただ自分に誓った。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
すっかり外が夜に染まった頃に帰ってきた煉獄に、炭治郎は転びそうな勢いで玄関先へと向かった。いや、実際にすっ転んだ。勢い余って床に頭からダイブして、帰宅したばかりの煉獄を仰天させた。
「炭治郎!」
「ははは、すみません。会いたくて……」
炭治郎は転んだままの姿勢で、両腕を広げた。
「おかえりなさい、煉獄さん」
「ああ、ただいま」
全く、肝が冷えたぞ。と、煉獄はぼやきながらも膝をつくと、炭治郎の腕の中に飛び込んだ。抱き締めて、抱き締め合って頬を擦り寄せる、炭治郎は意を決して彼の頬に口付ける。ふに、と唇を押し付けては真っ赤な顔で煉獄を見上げる。
「好き、です……」
転んだばかりで格好もつかない体勢ではあるけれど。どうしても、それだけは伝えたかった。他でもない、煉獄にだけは伝えたかった。
「煉獄さんが好きです。ずっと俺を支えてくれたあなたが好き、いつだって寄り添ってくれるあなたが好き、ずっと一緒にいたいです」
「ああ……」
煉獄は感極まり、強く炭治郎の背を丸ごと包むように強く抱き締め返してくれた。
「ああ、俺も君が大好きだよ」
「一緒に、幸せになってくれませんか」
「もちろんだ」
お互いに微笑み合い、自然と重なり合った唇は少しだけ、涙の味がした。幸せになる、この人と幸せになる。きっと明日やって来る朝は、今まで以上にあたたかくて、優しくて、待ち遠しい朝になるのだろう。
そんな予感がする。
Epilogue.
「炭治郎、君からキスをしてくれた今日を、キス記念日と名付けようか」
「ば、馬鹿なこと言わないで下さいよ。俺、けっこう恥ずかしかったんですよ!」
「ははは」
つい先刻、煉獄を押し倒す勢いでキスをしてしまったことを思い出しながら、炭治郎は寝床の準備を整える。布団は二組出すようにしているが、別々に寝たことはこのところ一度としてない。彼が好きだと、彼のことが好きだと今更ながらに自覚したことで、この和室で布団を並べて眠ることに恥ずかしさをより強く感じる。
思えば彼がこの家に住むようになって、一度たりとも抱き合わずに寝たことがない。
待って欲しいと、炭治郎は真っ赤な顔で掛け布団を広げる。待って欲しい、恋心を自覚していなかった今までとは違う、今は煉獄にすっかり惚れてしまっているのだ。一緒に眠るなんて、とんでもなく恥ずかしいことではないのか?
「さ、そろそろ電気を消そう。ん? どうした、そんなに赤い顔をして」
「いや、その、ちょっと……気恥ずかしいと言うか……」
「はは、……かわいいな君は」
豆電球だけになって、薄暗くなった部屋の明かり。その静かな明かりに誘われるように、煉獄の大きな身体が炭治郎を包み込む。ふわりと柔らかい敷布の上に横たえられて、頬に唇が触れる。いつもの入眠儀式なのに、この上もなく恥ずかしさが上回るのはどうしてだろう。ギュッと目を瞑り、身を硬くする炭治郎に、煉獄はふっと笑みを零した。
「炭治郎、今日は何もしないから力を抜いてごらん。一緒に寝よう」
チュッ、再び頬にキスが落とされて、炭治郎は恐る恐る目を開ける。自然と潤んでしまった目を見下ろす煉獄の目が、少しだけ大きくなったような気がした。
「何もって……何か、したいんですか」
「まあ……男だから」
「男だから、何かするんですか。あの、その、何かって……何ですか?」
「炭治郎、これ以上俺を煽らないでくれ、……そうだな、少しずつ……少しずつ進めていこう」
「進める……?」
小首を傾げる炭治郎に、何故か煉獄はぐうと呻いていたが、その理由はまだ炭治郎にはわからない。キスだけでいっぱいいっぱいの男には、まだこの先待ち受けている蜜月のビジョンが思い浮かんで来ないのだった。やがて唇に触れるキスに、漸く身体の強ばりが解けた。炭治郎は、それが自然であるように煉獄の首に腕を回す。なおも「煽らないでくれ」と懇願する煉獄の苦悩には、気が付かないままに。
「そうだな……今は、今は未来の話しでもしようか」
「未来……」
煉獄はひとつ深い吐息を零すと、炭治郎をあやすように優しくその背中を撫でさすった。
「いつか、いや、いつかなんて不確かな言葉じゃだめだ、必ず君の作ったパンを俺の店で出したいと俺は考えてる」
「パン……でも、パンが作れるかどうかなんて」
家族が死んでしまった今、彼らを思い出す引き金となる物を作り出すことができるだろうか。炭治郎は、ギュッとしがみつくように煉獄に抱きついた。そんな炭治郎の不安をも、煉獄はまあるく包み込む。
「作ろう、炭治郎。君が大切にしてきた家族の思い出を、これからも」
「でも……できないかもしれない」
「できるできないじゃない、やるんだ炭治郎。俺がついている」
「煉獄さん……」
「君も約束してくれただろう、俺と共に生きると。俺も君と、君のご家族との思い出と生きる。だから……共に進んでいこう……未来へ」
「未来へ……」
彼の言う未来は、綺麗事でしかないのかもしれない。でも、こうして深い夜に語る未来は何だかとても、明るく見えた。炭治郎はそっと目を瞑ってみた。遠くない未来、そんな夢物語のような日々が訪れそうな気もしてきた。煉獄と共に生きていたら、どんな困難な夜でも越えられる気がした──。死んだ天使が、夜を越えるように。
こんな夜なら──未来を夢見る夜が続くのなら、もう怖くない。炭治郎は、煉獄に向かってゆっくりと微笑みを浮かべた。それに応えるように笑ってくれる彼が、何よりも誰よりも愛おしい。
fin.

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