6.願うならば
存在意義というものは、生きている間にいつまでもいつまでも付き纏う。それはきっと、煉獄がこうやって翼を持ってここに存在する間にも、浮かんでは消えて、浮かんでは消えての繰り返しだ。料理を作り、家事だってできる。けれど、炭治郎のように食事を摂ることも、風呂で身体を洗うこともできない。触れたいと思わなければ実体に触れることもできず、夜になれば背中の翼は軽くなり、どんな時でも飛び立つことができる。煉獄は、まばらな星空を見上げながら思うのだ。どうして自分は、ここに、炭治郎のそばにいるのかと。
存在意義を、知りたい。
夜空に浮かぶ、細い月。重なり合うことも稀であった炭治郎との時間が、気まぐれにぴたりと合わさった日。二人は、縁側に腰掛けて静かな月見を過ごしていた。
「煉獄さんは、飛んで行かないんですか」
そんな中、ぽつりと炭治郎が問いかけてきた。何気ない疑問の言葉に、煉獄は目を細める。飛ぼうと思えばいつだって飛んで行けるのに、飛んで行こうとしない理由。不安そうに見上げてくる炭治郎を目に宿して、煉獄は唇を開く。
「飛んで行ったら、君が悲しむだろうから」
そんな気がするから。理由としては単純だ。単純だからこそ、確かな気もした。この青年は、煉獄が離れてしまえば、再び死に向かって行きそうな危うさがあった。
「悲しみませんよ」
「いや、きっと泣いてしまうさ」
「そんなことないです」
「寂しがり屋の君を、置いて行きたくない」
触れそうで触れられない距離に座って、煉獄は月を見上げた。消えてしまいそうな細い月は、涙を流す人の目もとによく似ていた。語り合うほど付き合いが長いわけでもないから沈黙が続いたが、不思議と悪いものでもなかった。同じ月を見上げ、同じ場所に腰を下ろす。ただそれだけのことが、心地よかった。止り木を見つけた鳥のような気分だ。煉獄はそう思って、目を細めた。
ふと、隣に座る炭治郎の肩が震えた気がした。ハッとして彼に目を向けると、裸足のまま庭へ出ようとしていた。煉獄は慌てて腰を浮かせた。
「行ってはいけない」
ただ一言、それだけを声にして煉獄は炭治郎を背後から抱き寄せる。彼は何かに怯えるように震えていた。また不安が彼を死へと導こうとしているのかもしれない。それだけは嫌だと、抱き寄せる腕に力がこもる。煉獄は、炭治郎の震えが止まるまでの間ずっと抱き締めていた。
炭治郎が落ち着きを取り戻すまで、煉獄は彼のそばにいることを選んだ。冷えた身体を暖めるように、彼と一緒に布団の中に潜り込んだ。最初は子供のように抱き返してくれていた彼だったが、体温が戻ってくるにつれ恥ずかしさが増したのだろう、煉獄の胸を押して嫌がる素振りをみせた。それでも煉獄はびくともせず、代わりに炭治郎の背中を幾度か撫で、耳もとに「おやすみ」と囁いた。それだけの言葉で真っ赤になってしまう炭治郎のことを、初めてかわいいと思えた夜だった。
炭治郎のために朝食を作ることは、すでに習慣の一部となってしまった。必ずではないにしろ、美味しいと言ってくれる彼を喜ばせるために、腕を振るう。そうしていると、消えてしまった記憶が戻ってきそうな気がした。時折、炭治郎の姿と、炭治郎よりも幼い誰かの影が重なる時があったからだ──。
「もういいですから」
ふいに炭治郎は箸を置き、険しい顔を煉獄に向けた。突然のことだった。いつものように向かい合うように座って、炭治郎の食事風景をニコニコと眺めていただけだった。それなのに、炭治郎は泣きそうな顔をしていた。
「もうそばにいなくていいですから! 俺はもう、死にたいなんて──」
勢い良く立ち上がった炭治郎に、煉獄は目を丸くする。頬でもぶたれたような心地で、立ち上がった彼を見上げることしかできない。
「とにかく、もういいですから! 違う人に取り憑いて下さい!」
そう言うなり、彼は足音けたたましく二階へと駆け上がって行ってしまった。「炭治郎!」と、煉獄は思わずそう叫んで台所を飛び出したが、呼びかけたところでどうすることもできなかった。突然炭治郎の目の前に現れ、「生きろ」などと勝手に彼の人生の選択肢を捻じ曲げて、親切心を押し売りしてきたのだ。己が発した言葉、軽々しく口にしてきた言葉たちは、炭治郎にとって必要なものだっただろうか。自分は、彼にとって必要な存在だっただろうか。
ぐにゃりと視界が歪む。
ふいに膝から力が抜けて、床に手をつく。呼吸が早まり、耳もとで鼓動が激しく脈打っている。息が出来ない──こんな身になっても、生命に危機が訪れようとしているのだろうか。煉獄は翼を震わせ、掠れた声で「炭治郎」と呟いた。
炭治郎、自分は君にとって必要のない存在だっただろうか。
どのくらい、台所の床に蹲っていただろうか。ふと、炭治郎の気配がしないことに気が付いた。彼の名を呼び、痺れるような身体を叱咤しながら立ち上がる。一階はもちろんのこと、二階にも炭治郎の姿はなかった。嫌な予感がして触れた玄関の戸は、容易く開いた。その瞬間、自分が身動きできなかったことも忘れて、煉獄は玄関を飛び出した。外はもうすっかり夜に染まっていて、煉獄の翼を軽くさせた。風を切るように飛び上がって、大きな翼をはためかせる──焦燥感だけが、煉獄を突き動かしていた。
月夜の明かりはどうしたって頼りなくて、探し人を簡単に見つけられる気がしなかった。けれど、それでも、見つけてあげたかった。いつだって死の向こうに行ってしまいそうな、あの子を。
病死した煉獄の母の亡骸に縋って、静かに慟哭していた父の背がふいに蘇ってくる。いつも大きくて頼りがいのあった背中は、あの時ばかりは小さく見えた。母の名を呼び、どうして先に逝ってしまったのかと問いかける父の声は震えていた。もう少し煉獄の年齢が上であったなら、そんな父のそばに寄り添うこともできたのかもしれない。だけど煉獄は幼く、また傍らにはもっと幼い弟の姿があった。
『あにうえ……』
不安そうな目をした子供の手を、強く握り締める。父から漂う悲しみに飲まれないように、煉獄は涙を引っ込めて、弟に向かって微笑みかけた。
『大丈夫だ、千寿郎──母上は遠いお空に行かれただけだ。しかし、どんなに遠いところに行かれても、これからも俺たちを見守ってくれる』
己に言い聞かせるような言葉に、幼い弟は首を傾げつつもこくりと小さく頷き返した。肉親の死を前に、大人も子供も平静ではいられない。その喪失の痛みが消えて、日常に戻るまでにどれほどの時間を要するだろうか。
炭治郎には──まだ、時間が必要なのだ。
煉獄が炭治郎を見つけた時には、すでに彼はビルの屋上でフェンスを乗り越えようとしていた。その横顔には生気が感じられず、煉獄は泣きたくなるような気持ちで彼のそばへと飛んで行った。
「炭治郎」
夜空に翼を翻した煉獄は、炭治郎の頬に両手で触れていた。炭治郎は裸足でフェンスに指をかけ、震える手で終わりへと向かおうとしていた。煉獄の目に涙が浮かぶ。
「君はどこへ行く気なんだ」
「あなたが……」
声が震えて、助けを求めるように炭治郎の片手が煉獄に伸びる。
「あなたがいない世界なんて、ないも同じだ……」
フェンスを支えていた手が離れ、炭治郎の身体が傾いでいく。
落ちる、落ちていく。
人生に絶望し、終わりを望むその人。煉獄の翼に力がこめられ、屋上に一陣の風が吹き抜けた。どくどくと激しく脈打つ胸に頭を預けるように、炭治郎が煉獄の腕に抱かれて宙を浮かぶ。その重み、命の重みに煉獄は静かに涙を流した。存在意義など、もうこの際どうだってよかった。そんなものよりも、ずっと大切なものがある。運命の気まぐれで出会っただけだとしても、今この腕に抱いた人間を生かしたいという思いが、静かに煉獄の胸に火を灯した。
それからの煉獄は、より炭治郎に親身になって寄り添った。恋人みたいな関係性では無かったが、友人よりは親しい仲と呼べるほど、二人の仲は良好のように煉獄は思っていた。料理を作れば炭治郎の笑みが生まれ、洗濯や掃除をすれば炭治郎の心地よさそうな横顔が見られた。
「まるでお店みたいで、美味しいです」
彼のために腕によりをかけて作った料理を褒められると、煉獄はとても誇らしかった。同時に、炭治郎の姿に幼い日の弟が重なって見えた。その時ばかりは平静な顔もできず、神妙な顔つきになってしまったかもしれない。
それもそのはずで、炭治郎のそばに居たいという気持ちと同時に、自分はどういう状況下にいるのだろうかといった、そんな不安がこの頃煉獄の脳裏を掠めるようになったのだ。
自分は死人なのか、それともこの記憶は紛い物なのか。
そんな不安が膨らみつつあった頃、転機が訪れた。
「元気になったようだな」
「ありがとうございます、義勇さん」
いつも訪れていた鱗滝という老人の代わりに、青い海のような目をした黒髪の美丈夫が訪れた。玄関先で、凪いだ海にも似た物静かな風貌のその男を目にした途端、煉獄の口から信じられない言葉が飛び出した。
「冨岡じゃないか、久しいな!」
冨岡と呼んだ男は、煉獄の存在が見えないのか炭治郎に向かって二言三言話すと、すぐに踵を返してしまった。炭治郎もギョッとしていたが、彼よりも驚いたのは煉獄のほうだ。記憶という不確かなもの、奥底から呼び覚まされる名前、関係性に、煉獄は目を丸くした。
「ぎ、義勇さんを知っているんですか?」
「うむ! 俺の友達だ!」
そう口にしながら、そうだ、冨岡という友人がいたのだと煉獄は突然に思い出した。母親との死別という、幼心にとって衝撃的すぎる経験が、煉獄の心に大きな傷を作っていたのだろう。だから全ての記憶が、そこで止まってしまっていたのだ。
記憶が、様々な記憶が浮かんでは消える。
小学生、中学生、高校生、大学にと記憶が目まぐるしく頭の中をかけ巡って気が変になってしまいそうだ。煉獄は、炭治郎に背を向けた。
「あなた、天使じゃないんですか?」
「天使だと君に言った覚えはないな!」
さてさて、冷蔵物は早く仕舞おうと言って、煉獄は先程冨岡が置いていったレジ袋に手をかける。そうして台所へと向かおうとする煉獄に、炭治郎の声が震えた。
「もしかして、生霊……?」
「ははは! 俺にもわからん!」
愉快そうに笑いつつも、心は動揺を見せていた。ありとあらゆる人の顔や声が頭に訪れては、しっちゃかめっちゃかだ。
「醤油が二本あるぞ!」
冗談めかして声をあげていなければ、不覚にも倒れてしまいそうだった。
「死んだ理由を教えて下さい」
「死んだ覚えはないのだが」
「幽霊というものは、大体死んだことを覚えていないんですよ」
「詳しいな」
「テレビで観たんです」
夕食の最中、そんなやり取りをしながら炭治郎はまじまじと煉獄の身体を眺めていた。そんな炭治郎に、煉獄はどう返答したらよいのかわからない。つい先程蘇ったばかりの記憶を語ってもよかったが、まだ現実味が自分にはない。炭治郎は、翼があるからてっきり天使だとばかり……、と口をもごもごさせている。その様子は、ハムスターのようで愛らしい。そう言えば、幼い日に飼っていたハムスターも死なせてしまったのだった。まだ母が生きていた頃の──。
「君は笑うとかわいいな!」
と、煉獄は切ない記憶から逃れるように炭治郎の手を握った。こうして、人に触れられるのだから自分は確かに生きているのだろう。けれど、先程の冨岡のように炭治郎以外の人間に己は見えない。そして、背中には人間ではない翼がある。もしも、もしも自分がこの世にいない人間であったなら──。
「もし、本当に死んでいる人だったら──」
炭治郎のか細い声に、ハッと顔をあげた。煉獄の手を握りしめる炭治郎の息が、は、と一瞬だけ途切れた。その顔色がみるみる青ざめていくのを見て取って、煉獄は己にも言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「思いつめるな」
強く、手を握り返す。
「万が一にも俺が死んだ人間だとして、後追いされるのはごめんだ」
「で、でも……」
「胸を張って生きろ、君の家族のためにも」
炭治郎の赤い目が揺れ、肩が震える。最愛の家族の最期を思い出してしまったか、彼は泣きながら嘔吐してしまった。傷つきやすいこの人のそばに、自分はまだ居たいのだと願いながら、炭治郎の背を撫でる。しかし、祈りも虚しくその手が透けていく。彼が眠りにつくまではどうか、どうかと祈る。祈るしかなかった。指先はもう完全に空気と同化しつつあった。幸いにも、炭治郎は具合が悪く、煉獄の異変に気付くことはなかった。
炭治郎がすっかり眠りについたのを見守ってから、煉獄はそっと彼の部屋から離れていった。身体はもうすっかり、向こう側が透けるほど透明になっていた。月夜に翳した手も、何もかもが空気に溶けていく。
自分が誰なのか、どこから来たのか。
そんな単純な思い出を、思い出せなかった罰なのだろうか。
煉獄は、消えゆく身体に抗うように膝をついた。思い切り翼をはためかせたが、夜だというのに身体は軽くならなかった。
耳の奥でけたたましいブレーキ音が響く。
そうだ、自分は車に轢かれたのだ。炭治郎の家族がそうだったように、猛スピードで走ってきた車に轢かれたのだ。道路に飛び出したボールを追いかけた子供を庇う、そんなヒーローじみたことをしたばかりに。けれど、それでよかったのだ。小さな子供は命を救われたのだ。そうして自分だけが犠牲になっていれば、それでよかったのだ。
消えゆく一瞬、炭治郎のはにかむような笑顔が煉獄の眼前に浮かんだ。太陽みたいに笑う彼が好きだと、その笑顔をもっとそばで見ていたいと叫ぶように翼を翻す。
月夜に照らされた廊下に、渦を巻くように風が舞って、それから煉獄の身体は一つ残らず掻き消えた──。
「……さん……」
誰かの声が聴こえる。幻聴だろうか。煉獄は瞬きを繰り返したが、何も見出すことはできなかった。世界は全て白く、上も下もなかった。どこまでもどこまでも続く白い世界は、死後の世界に等しいものだ。まして声なんてものが、届くはずもない。そうだ、自分は死んだのだ。だから天使になって、未練がましく夜空を飛んでいたのだ。そうに違いない。
「……さん……っ」
しかし、見えないところから声が聴こえる。背中を振り仰いでも、もう翼もない。それなのに、とても懐かしい声がした。
「勝手に……行かないで下さい……おいて行かれたかと、思って……」
この声は聴いたことがある。それもそのはずだ。このところ毎日のように聴いていた。最初は泣いていて、怒ったり、不安そうに言葉尻を震わせていて、それでも時々笑ってくれるその声が好きだった。どうか笑っていてほしい。自分がいなくなっても、笑って生きていてほしい。そんな願いを込めて、見えない世界の向こうに手を伸ばした。
「ああ、炭治郎……」
「煉獄さん……っ!」
今度は、はっきりと声がした。触れるはずのない手に、確かに感触がある。真っ白だった視界が次第に開けていく。最初に目にしたのは、真っ赤に泣き腫らした目をした、大好きな人の顔だった。煉獄は、緩く彼の手を握り返す。
「俺、生きる……生きるから、もう死ぬなんて言いません、生きていきますから……っ!」
「うん」
掠れた声に、炭治郎の目からいくつもいくつも涙が零れ落ちていく。
「今度は俺が、煉獄さんのお世話をしますから、だから……煉獄さんも、生きて下さい」
「うん、ありがとう……一緒に……」
うまく声が出せない。もどかしさに、くいと彼の指を引いた。炭治郎は煉獄の意図を汲み取ってくれたのか、そっと口もとに耳を寄せてくれた。柔らかい毛先が、唇を擽る。同時に、彼の匂いが正しく届く。生きている、生きている人の匂いがした。
「炭治郎、一緒に生きて……いこう……」
「はい……、はい……!」
炭治郎は何度も頷きながら、煉獄の手を強く握り返してくれた。煉獄もまた、眩しそうに目を細めた。奇跡のようなこの瞬間を、この出会いを、何と呼んだらいいのだろうか。
病室に、看護師たちがバタバタと入室してくるまで、煉獄と炭治郎はじっと見つめ合っていた。それだけで通じ合えるものがあるのかもしれない。お互いに過ごした時間は僅かでも、寄り添って来た事実は確かなのだ。これを恋と呼んでもいいのなら、何度でも呼んでみたい。
あの夜を越えて今、こうして出会うことができたのだから──。

※コメントは最大1000文字、50回まで送信できます