死んだ天使は、夜を越えるのか - 4/7

4.死んだ天使は、夜を越えるのか

朝目が覚めて、最初に確認することはまず、煉獄の所在を気に掛けることだった。飛び起きて、階下から香ばしい朝食の匂いが漂ってくることで、安堵している自分がいた。同時に、もしこの匂いも生活音も無くなってしまったらどうしようという気持ちが行き過ぎる。
煉獄は天使だ。どういう目的で、どういう事情があってここにいるのか、炭治郎には何一つわからない。いつまでも、彼がここにいる保証はない。そんな風に彼の存在を気にしてしまうほど、煉獄は日常に溶け込んでいた。
朝食は和食が多く、二日か三日ごとに洋食になる。昼はカップラーメンの時もあるが、基本的に手料理が出されることも多い。夜は一日で一番手の込んだ料理を作るので、炭治郎も手伝っている。食卓は二人で囲うけれど、煉獄が食べることはない。もうかれこれひと月くらい共に生活しているが、煉獄には空腹という概念はないようだった。
それなのに、作る料理の何と美味しいことか。
「まるでお店みたいで、美味しいです」
一度だけそう褒めると、彼は思慮深い目を細めて静かな声で相槌を打った。何か思い浮かべることでもあったのだろう、その時の煉獄の懐かしむような面差しは、驚くほどに人間的だった。

その日の夕方、スーパーマーケットの袋をたくさん携えて叔父の鱗滝が訪ねてきた。玄関先に煉獄と赴くと、幼馴染みである冨岡義勇も、鱗滝と共にダンボールを下ろしているところだった。夜を彷彿とさせる黒髪と、静かな青い瞳が炭治郎をじっと見下ろす。
「元気になったようだな」
「ありがとうございます、義勇さん」
「冨岡じゃないか! 久しいな!」
煉獄の明るい声にハッとして振り返るも、義勇は首を傾げている。それもそのはずだ、義勇には煉獄の姿など見えていないのだ。
「あ、いえ……何か虫が飛んだような気がして……」
「そうか」
「冨岡、元気そうで何よりだ!」
呵々と笑う煉獄の言葉にも、煉獄の姿にも気付かないのか、義勇は幼馴染みである炭治郎の頭を静かに撫でた。
「また、錆兎たちとも会ってくれ。真菰も喜ぶ」
「炭治郎、また来る。次は皆でどこか出かけよう」
義勇の言葉を補足するように、鱗滝が言葉を重ねる。出かけようという言葉に、ひくりと喉が鳴る。二人はそれ以上は言葉を連ねず、「またな」と家を後にした。
頭の奥で、車のエンジン音が唸る音が聞こえた気がして、唾を飲み込む。息苦しさが喉を絞める。
「よもやよもやだ、冨岡は俺が見えないのだろうか」
そんな炭治郎の背後で、煉獄が不服だとばかりにへそを曲げた。張り詰めた空気が一瞬にして解けた。
おかげで、息が出来る。
だから、降って湧いた疑問を煉獄に投げかけた。
「ぎ、義勇さんを知っているんですか?」
「うむ! 俺の友達だ!」
意外な言葉に、理解が追いつかない。彼は天使で、この世のものではなくて、誰にも見えない存在で。
「あなた、天使じゃないんですか?」
「天使だと君に言った覚えはないな!」
さてさて、冷蔵物は早く仕舞おうと言って、煉獄はレジ袋に手をかける。ごく普通に物に触れて、料理まで作れるものだから失念していた──天使というものの概念とは何かを。
「もしかして、生霊……?」
「ははは! 俺にもわからん!」
愉快そうに笑ってキッチンへと向かって行ってしまった背中を追いかける。冗談じゃない、生霊なんて真っ平ごめんだ。いや、生霊とも限らない。怨霊、地縛霊、成仏できない憐れな霊かもしれない。
天使よりも厄介ではないか!
うーんと頭を抱えてしまった炭治郎をよそに、「醤油が二本あるぞ!」とキッチンから煉獄の声が響いてくる。事実は小説より奇なりという言葉を思い出す。
もう、天使だろうと幽霊だろうと、何でもよかった。
彼が、この世の者ではないことだけは、確かなのだから。

「死んだ理由を教えて下さい」
「死んだ覚えはないのだが」
「幽霊というものは、大体死んだことを覚えていないんですよ」
「詳しいな」
「テレビで観たんです」
夕食の最中、そんなやり取りをしながらまじまじと煉獄の身体を眺めた。身体は透けていないが、やはり白い翼はある。試しに煉獄の手を取ろうとしたが、こちらの手はすかっと通り抜けてしまう。翼があるからてっきり天使だとばかり……、と口をもごもごさせる炭治郎に「君は笑うとかわいいな!」と、煉獄はこちらの手を握ってきた。彼が触れる時は、こうして難なく触れられるのだ。そして、体温がある。ぬくもりがある。炭治郎はかわいいと言われたことに憤慨するよりも、この手をつないだ人物の正体が気がかりだった。
「もし、本当に死んでいる人だったら──」
そこまで考えて、ぞわりとした。つい先日、自分は何をしようとしたのか。何に向かってがむしゃらに駆けていたのか。家族のいない日々に絶望して、走り抜けていたんじゃないのか。
は、と息が途切れて煉獄の手を握りしめる。
もし、この手の先にいる人が死人だとしたのなら。
この先もずっと、自分のそばにいるはずがない。帰るべき場所に帰るだろうから。
彼が帰ってしまったら?
帰ってしまったら自分は一人きりだ。そんなの、堪えられるわけがない。それならいっそ──。
「思いつめるな」
強く、手を握り返される。
「万が一にも俺が死んだ人間だとして、後追いされるのはごめんだ」
「で、でも……」
「胸を張って生きろ、君の家族のためにも」
最期に見た光景が蘇る。家族だった人たちの、影も形も無い姿、ただの肉片。
込み上げて来る吐き気を堪えるため、煉獄の手を振り解き、両手で口を覆った。せっかく食べたものが全て溢れ出て、テーブルを、膝を汚した。そんな炭治郎の背を、煉獄は何も言わずに擦ってくれる。無性に泣きだしてしまいたくなる、夜だった。

泣き腫らした目で朝を迎えて、むくりと起き上がる。家族のこと、煉獄のこと。いろんな何もかもが頭に重くのしかかって離れない。彼が死者だとしたら、すでにもう生きていない人だったとしたら、この出会いは何だったのだ。
ふと、何の匂いも漂わないことに気が付いた。階下からの物音もしない。しんと静まり返っている。嫌な予感がして、階段を駆け下りる。真っ直ぐにキッチンへと向かって、煉獄の姿を追い求める。
けれど、そこには誰もいない。料理だって作られた痕跡はない。
「煉獄さん……?」
洗濯でもしているのだろうか。それとも玄関で掃き掃除をしているのだろうか。押入れの中、天袋の中、くまなく家の中を探し回ったが、翼の生えた天使など、どこにもいなかった。
どこにもいない。
この家には、自分だけしかいないという事実が押し寄せてくる。家族だってもう───。目眩を起こしそうになった時、玄関先で物音がした。
ゴトリと、何かが置かれる音がした。たったそれだけの音なのに、縋るように階下へと駆け出した。
「煉獄さんっ!」
そう叫んで、玄関へと向かった。だけどそこにいた人影は、煉獄などではなかった。あの明るい金糸の髪ではなかった。
「義勇さん……」
先日もそうだったように、ダンボール箱を上り框に置いてくれている義勇がそこにいた。静謐な青い瞳が訝しむように炭治郎に向けられる。
「あの、煉獄さんはどこに……」
彼に問い掛けてしまってから、炭治郎は自分の愚かしさに気付いて口を噤んだ。煉獄という天使がいたこと、ここで共に暮らしていたこと。そんなお伽噺のような出来事を、どう説明すればよいのか。
「煉獄を、知っているのか」
しかし、義勇の口から返ってきた言葉は意外な問い掛けだった。言葉の足りない幼馴染みは、重い荷物を運んだ反動で肩をぐるりと回しながら「煉獄は俺の友人だが」と続けた。
「怪我をして、ずっと入院している」
炭治郎にその友人とやらの話しをしただろうかと、彼は不思議そうに首を傾げていた。入院、そして怪我という言葉に、頭の中で何かが繋がったような気がした。
「義勇さん!」
例え間違いであってもいい。煉獄との出会いから何から間違いで、気のせいであってもいいから。
「その、煉獄さんが入院している病院を教えて下さい!」
「構わないが……」
きょとんとしていた義勇だが、炭治郎の切羽詰まったような物言いに何かしら感じるものがあったのだろう。
「ついて来い」
彼は炭治郎を家から連れ出してくれた。何ヶ月ぶりかの外出だ、もうずっとこの家を離れたことなんてなかった。あの日、死ぬ場所を探し求めた夜以来の──外出である。
義勇は炭治郎を車で連れ出そうとしてくれたが、車のフォルムを見ただけで発作のように蹲ってしまった炭治郎に、電車で向かおうかと提案してくれた。
道中、義勇は友人の話しについて触れることはなかった。だから、これから向かう場所にあの天使がいるという確約はない。それでも、希望という二文字が炭治郎の頭を占めていた。
煉獄は天使だった。大きな翼を持ち、夜空すら飛んでみせた。けれど彼は義勇を友人であると認めていた。何より、作ってくれる料理の全てが人間的だった。自分が知る限り、天使が料理なんて作るだろうか。掃除をするだろうか。死にたいと願う人間に寄り添ってくれるだろうか。
人間であれば。
本来の煉獄の姿が人間であれば、全て合点がいくのだ。

義勇が連れてきてくれた、大病院。その広い入院病棟に、果たして『煉獄』の名札が掲げられていた。しかし、『面会謝絶』という札に目を瞠る。
「昏睡状態が続いている」
とだけ告げて、義勇は徐に病室のドアをスライドさせた。看護師に咎められないだろうかと一瞬不安が頭を擡げたが、それもすぐに鳴りを潜めた。
白い病室、白いベッド。いろいろな管が繋がれて、深く眠りについている金色の人。
煉獄だと炭治郎には、瞬時に理解できた。もちろん、翼などない。よろめくようにベッドへと向かう炭治郎を、義勇は静かに見送ってから部屋を辞した。遠くで看護師が何か喋っているような気配がしたが、炭治郎にはもう全ての音が遠ざかっていった。
残された炭治郎は、眠っている煉獄と二人きりだ。横たわる彼の頭には、痛々しく何重にも包帯が巻かれている。腕も、足も、ギプスがはめられている。瞼はしっかりと閉じられていて、微かに胸が上下している。
「煉獄さん……」
彼がどうして眠りについているのか、それはまだ炭治郎の知るところではない。それでも、こうして再会できたことが嬉しい。
「煉獄さん、炭治郎です……」
膝をついて、煉獄の腕に触れる。通り抜けることもない、本物の人間の腕だ。体温だって確かにある。
「勝手にどこかに行かないで下さいよ、俺、おいて行かれたかと、思って……」
ふいに、腕が動いた。固定されていない手が動いて、炭治郎の手を取る。ハッとして煉獄の顔を見上げると、懐かしい金環の目が柔らかく細められていた。
「ああ、炭治郎……」
「煉獄さん……っ!」
炭治郎は子供みたいに泣いて泣いて、煉獄との再会を喜んだ。不思議な出会いだった、突拍子もない出会いだった。あの夜に出会えなければ、こうして手を繋ぐこともなかったのかもしれない。
「俺、生きる……生きるから、もう死ぬなんて言いません、生きていきますから……っ!」
「うん」
病床の煉獄の声は掠れていて、力はない。天使であった頃の煉獄が、本来の彼であるのなら、怪我によって精気を失っているのだろう。
「今度は俺が、煉獄さんのお世話をしますから、だから……煉獄さんも、生きて下さい」
「うん、ありがとう……一緒に……」
くいと指を引かれ、導かれるままに立ち上がって彼の口もとに耳を寄せた。
「炭治郎、一緒に生きて……いこう……」
「はい……、はい……!」
炭治郎は何度も頷きながら、煉獄の手を強く握り返した。煉獄もまた、安堵したのか目を細めてくれた。愛しさが芽生えたこの瞬間を何と呼んだらいいのだろうか。
病室に、看護師や義勇がバタバタと入室してくるまで、炭治郎はじっと煉獄と見つめ合っていた。それだけで通じ合えるものがあるのかもしれない。お互いに過ごした時間は僅かでも、寄り添って来た事実は確かなのだ。これを恋と呼んでもいいのなら、何度でも呼んでみたい。
あの夜を越えて今、こうして出会うことができたのだから──。

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