5.意味のない夜間飛行の果てに
肉親を亡くした時ほどの己の無力感を、煉獄はどう説明すればよいのかわからないまま、大人になった。
祖父母を亡くしたのは物心つく前、次いで母親を亡くしたのは十歳の頃だった。祖父母に関しては記憶が薄く、喪失感らしいものは訪れなかったが、母親の死に関しては世界が崩壊するような衝撃であったと、煉獄は記憶している。
病死であった。
幼い記憶をどんなに手繰り寄せても、母親が病床から起き上がることはなかったように思う。線の細い人であったが、眼差しだけは誰よりも強い人だった。幼稚園や学校で嫌なことがあってグズグズ泣くようなものなら、背筋を正しなさいとピシャリと言い放つような人だった。
そんな人だったからこそ、家族の中心にあるような人だったからこそ、その喪失は計り知れないほどの痛みと悲しみを齎した。その悲しみの最たるものが、父の変貌だろう。母を亡くした父は、その日から煉獄と幼い弟の世話を忘れるほど酒に溺れるようになった。まだ母の死を理解できない弟に寄り添うしかなかった煉獄は、母を喪った悲しみを言語化することもできないまま、大人になるしかなかったのだ。
そんなことをつらつら考えながら、煉獄は夜空を飛ぶ。比喩ではない、実際に煉獄は空をすいすい飛んでいた。景色はぐんぐん過ぎ去り、風はびゅうびゅうと吹き抜けていく。過去のことをどんなに考えても、自分が空を飛べたなどという記憶は一つもない。それなのに、飛んでいる。
奇妙なものだったが、悪くはなかった。
背中のあたりでばさりばさりと空を切る音が聴こえる。街灯を背に地上すれすれを飛んで初めて、背中に何やら大きな翼があることを知った。そして道行く人たちは誰も煉獄に気が付かなかった。それどころか、するりするりと煉獄の身体の向こうにすり抜けていく。実体を伴わないのだろうか、それともこの世界自体が感覚をすべて無くしてしまったのか。
よくわからなかった。
それでもただできることは、宵闇の中を翼をはためかせて飛ぶことだけ。せめて昼の空を飛べれば良いのだが、朝になると不思議と翼は重くなって、煉獄は飛ぶことができなくなった。子供の頃は人間だったが、大人になって翼を持った生き物に変化してしまったのだろうか。実はそれもよくわからないのだ。ただ、昼間は適当なところで羽根を休めて、夜になると空を飛ぶ。それだけのことを繰り返すうちに、そういうものだと頭が理解してしまった。
自分は、翼を持った人間なのだと。
夜に空を飛び、昼に休む生活が続いてどれほど経っただろうか。自分が何者であるのか少し忘れかけていた頃、煉獄はふとビルの屋上に足を降ろした。ともすれば一晩中飛んでいるような日々を送ってきた中で、それは一種の気まぐれのようなものだったのかもしれない。なんとなくビルの縁に腰掛けて、さざめく海のような夜の街を見下ろした。
自分が誰で、何者で、どうして夜空を飛んでいるのか。
理由のわからない日々は、母のいない日々に酷似しているようにも思えた。愛情を、信頼を、全て一身に受けてきたからこそ、その喪失は耐えきれぬほどだった。ぎゅっと己が身を抱きしめた、そんな時だった。
「危ないですよ」
震える声が、背中越しに響いた。ふり仰ぐと、暗がりの中に怯える青年の姿があった。赤茶色の髪に、赤い目をした不思議な青年だった。暗いのに、その明るい眼差しだけは真っ直ぐ煉獄の視界に飛び込んできた。煉獄は瞬きの内に、その青年が何故こんな人気のないビルの屋上に居るのかを悟った。徐に立ち上がって、煉獄は両腕を広げた。
「ここから、飛び降りてみせようか」
「な、何を言って」
「君が今、望んでいることだろう」
「……っ!」
眼差しが揺れ、彼は煉獄の言葉を否定するようにフェンスを掴んだ。こんな物寂しい場所に人が現れることは、よくある光景だった。珍しいことではない。ここしばらく、幾度も夜空から見てきた。夜に飲まれかけた人間。生と死のあわいで、どちらにも足をかけたまま、決めきれずにいる存在。
だがそれは、同時に自分という存在にもよく似ているような気がして──どうしても、放っておけなかった。煉獄は軽くフェンスに指をかけると、ぐんと翼に力を込めてフェンスを飛び越えた。そうしてふわりと屋上に足を降ろして、青年に向かって微笑みを浮かべた。
「死ぬにはまだ若過ぎるな」
「……そんなの、勝手でしょう」
予想通りの答えに、煉獄は目を少しだけ伏せる。誰が楽しくて、薄ら寒いビルの屋上に来るものか。
「天使だとしたら、俺を迎えにでも来たんですか」
「いや、君はまだ夜の縁で迷っている──迎えることはできない」
迎えるも何も、導けるような存在ではないけれども。どうにも、目の前の青年を死という終焉から遠ざけたかった。こうして自分に話しかけられる人間なんて、彼一人しかいなかったのだから。だからこそ──。
「じゃあ、そこをどいて下さい」
「君には越えられるのか、この夜を」
自分だって、この夜を越えられるのかわからない。いつまで夜空を飛び続ければいいのかわからない。それでも煉獄は、どうしても青年に手を差し伸ばしたかった。
「生きろ」
たった三文字の言葉。たったそれだけの言葉に、青年は頽れるように膝をついた。そうして慟哭する青年に釣られるようにして煉獄も涙を流した。彼が可哀想だからとか、自分が可哀想だからではない。無意味に繰り返してきた夜間飛行の終局を、見出したような気がしたからだ。
「おはよう!」
煉獄が発した「おはよう」の言葉に、布団から起き上がったばかりの青年は戸惑いの表情をみせる。その気持ちも、煉獄には痛いほどにわかる。昨晩突然目の前に現れた人ならざる者に、理解など追いつかないだろう。それは自分も同じだ。繰り返し続ける飛行を止めるように彼の家に勝手に転がり込んで、彼のために食事を作ってしまったのだから。
「食べることは、生きることだからな」
そう口にすることで、煉獄も彼と同じように生きているのだと言い聞かせる。夜に飛び、昼に休む生活が人間離れしていることに、薄々勘付いていたからだ。青年が煉獄を天使と呼んだように、もう自分は人では無くなってしまったことに、気が付いたからだ。
かつては人だったのかも、しれないけれど。
しかし、自分はこの青年のために食事を作ることができる。彼のためと思えば、どんな物にも触れられる。これを生命と呼ばずして、何と呼んだらいいのだろうか。自分も生きているのだと、それを救いにして煉獄は笑顔を浮かべた。怯えを見せる青年の様子に、胸を痛ませながら。
青年の名は、「炭治郎」といった。
廊下に色とりどりに貼られた表彰状の中に、その名前があった。煉獄が何気なくその名を呟いた時の、青年の驚いた顔が忘れられない。人は、名前を呼ばれることで存在意義を知ることができるのかもしれない。自分も「煉獄杏寿郎」と──その名前がどうして頭にあるのか不思議な思いで──彼に伝えた。その名を炭治郎が口にする度、自分にも生があることを感じられた。それなのに、炭治郎の表情はちっとも生命の喜びに満ちていなかった。食事を摂り、名を呼ばれても、彼の目はどこか遠くを見ていた。ここではない、そうだ、あの夜の屋上のように死を望む目ばかりしていた。それは、煉獄の心を軋ませて止まなかった。
煉獄から洗濯籠を奪うようにして、庭先へと向かってしまった炭治郎の後に煉獄も続く。
「炭治郎、良かったら君の理由を教えて欲しい」
彼の邪魔にならないように、縁側に腰を下ろした煉獄に向かって、炭治郎の顔が歪んだ。
「生きているからですよ、俺が……俺だけが……。ああ、そうだ……俺が、死ねばよかったんだ……」
あの夜のように泣き崩れてしまう炭治郎のそばへと、自然と足が向いていた。彼の生き様や人生の何を知るというのだろうか。この涙の深い底にある理由もわからないというのに、それでも、煉獄は炭治郎を抱き締めてあげたかった。また夜に向かって消えてしまいそうになる、この儚い命を繋ぎ止めたかったのかもしれない。炭治郎は、煉獄の腕の中でしゃくり上げるように泣いて、泣き続けた。抱きとめた命には、太陽のようなぬくもりがあった。だからこそ、このぬくもりを失いたくないという、そんな気持ちが降って湧いてきた。
かつて、余命幾許もなかった母親に抱き締められた幼い日のことが──ふいに蘇るようだった。
家の中に漂う寂寥感や、時折訪ねてくる鱗滝という老人との会話から、炭治郎がごく最近家族を全て喪ったことに気が付いた。彼の晴れない顔、涙、死を望んだ夜。そういうことの全てを知ると、食事を作る手も止まりがちになる。僅かながら自分の作る料理を口にしてくれてはいるが、それがいつ止まってしまうかわからない。今日も明日も食べてくれるだろうか、要らないと言って逃げてしまわないだろうか。煉獄は、そんな不安をキュッと唇を笑顔に結ぶことで打ち止めた。
「煉獄さんは、ご飯食べますか」
食卓にふらりと訪れた炭治郎は、ふいにそんなことを尋ねてきた。
「いや、俺は食べないな」
いや、食べられないと言うべきかと煉獄は顎を撫でる。
「俺だけ食べるのも味気ないから」
そう言って、煉獄のためにと食事を作り出した炭治郎に、煉獄は目もとを緩める。自分が行ってきたことが、実を結んだようで嬉しかった。当然のように煉獄は食事を摂れなかったが、それでも誰かと向かい合って食事をすることは、心を穏やかにさせた。彼は危うい。いつだって、亡くした家族のもとへと向かっていってしまいそうだから。だけど、今こうして、食事という架け橋で彼の命を繋いでいられるのなら。これほど、嬉しいことはない。
ふと、煉獄の耳に「兄上」という声が聴こえた気がした。台所には、炭治郎と煉獄しかいない。それでも、耳には確かに声が届いた。
「兄上、美味しいです」
幼い子供の声は喜びに震えている。その姿は見えることはなかったが、目の前の炭治郎の顔に僅かな笑みが見えた気がして、煉獄の心は今まで以上に安らいだ。誰の声でもよかった、美味しいと喜んでくれるのなら、それだけでよかった。
「煉獄さん、美味しいです」
「兄上、美味しいです」
声が重なる。微笑みを浮かべてくれた炭治郎に、鼓動が跳ねる。ああ、この胸に心臓があるというのだろうか。触れようにも触れることのない我が身は、一体何者なのだ。煉獄は目を細め、いつもよりも小さな声で「ありがとう」と応えた。
その日の夜、珍しく炭治郎が煉獄を呼んだ。考えてみても、これが初めてのことだったように思う。
「煉獄さん……」
暗がりの中、炭治郎の声が震えていた。もうすっかり寝ていると思った彼の部屋へと、足を向ける。
「どうした」
部屋の入り口で声をかけると、薄暗闇の中で炭治郎の目元に涙が光った気がした。彼は、煉獄を認めるなり弱さを零した。
「夜が、怖いです」
「眠れないか」
「逃げ出して、しまいそうになります」
ギュッと胸が痛む。衝動のまま足を向けて、彼が座る布団の前で膝をついた。
「君が眠るまで、子守唄でも歌おうか」
「歌は、いいです」
煉獄は、ふいに炭治郎の額に触れた。幼い子供を慰めるような行為を、彼は嫌がらなかった。煉獄の手を受け入れてくれるのか、炭治郎の手もまた煉獄の手に触れた。
「じゃあ、しばらくこうしていよう」
「ありがとうございます」
同じ布団の中ぬくもりを分け合う夜、彼が眠りにつくまで何度もその頭を撫で続けた。柔らかな赤茶色の髪、ピアスの痕のある耳たぶに触れて、寝息をたてる唇に触れそうになり──手を引っ込める。何かが掴めそうで掴めない夜は、やけに長かったように思う。炭治郎に誰かを、記憶の向こうの誰かを重ねているのかもしれない。けれどそれが誰なのか、思い出せない。
そもそも、そんな記憶があるのかどうかもわからない。自分は誰なのか。煉獄は炭治郎を胸に抱きながら、言いようのない不安に呼吸を震わせた。

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