3.寄り添う夜に、名をつけるとしたら
目が覚める頃に合わせて朝食の良い匂いが漂ってくる。規則正しい時刻に起床しているわけでもないのに、いつも起き上がると美味しそうな匂いがしてくる。もしかしたら、この匂いで炭治郎が起きて来ることを狙っているのかもしれない。そうだとしたら煉獄は随分と策士だ。匂いに釣られるようにして、キッチンへと向かってしまうのだから。
キッチンのテーブルに、焼き立てのパンとサラダ、ハムとチーズのオムレツ、コンソメスープが並んでいた。食器のチョイスもセンスがよく、どれも食欲をそそるようにきれいに盛り付けられている。それでも一人分である。煉獄は、エプロン姿のまま「さあ、朝食にしよう!」と、炭治郎のために椅子を引いてくれた。何とも言えない擽ったい心地で、炭治郎はフォークとナイフを手にした。
「気になっていたんだが、君は成人しているのか」
向かい合うように椅子に座った煉獄が、頬杖をつきながら尋ねてくる。
「成人式なら、一昨年……」
オムレツを口にする。とても美味しいのに、過ぎ去りし日々が胸につっかえて、あまり食が進まない。成人式は気慣れないスーツに身を包んで、家族全員からお祝いを受けた。兄ちゃん、おめでとう。お兄ちゃん、おめでとう。炭治郎、おめでとう。家族みんなの声が蘇っていく。
「そうか、俺はてっきり高校生だと思っていた! では、何か仕事をしているのだろうか、それとも学生だろうか」
「学生では、ないです……仕事も……してません……」
「うむ、なるほど!」
何がなるほどなのか。煉獄は、腕を組むとギョロリとした目をこちらに向けてきた。天使にしては威圧感がある。
「つまり、君は療養中といったところか!」
概ね似たようなものなので、それには応えなかった。朝食はしつこくなく、丁度いい塩梅の美味しさだった。家庭料理とは少し違う丁寧な作り方に既視感を覚えたが、それが何かはよくわからなかった。
日中やることと言ったら洗濯と掃除くらいだ。洗濯に関しては煉獄がやりたがるので、任せてしまっているが、掃除だけは誰にもやらせたくなかった。この家のどこに何があって、何が無いのか。それがわかるのは自分だけでよかったからだ。それに、あちこちに散らばる思い出の居場所を一ミリでも動かしたくなかった。だって、もしそこから一つでも家族の持ち物が無くなってしまったら、家族が存在しなかったことになってしまうだろう?
家族は確かに生きていたんだ。どこかに行ってしまっただけで、いつかまた使うだろうから。
そうだこれもこれもあれもそれもこれもどれも、全て。全て!
家族が帰ってきて、一つでも失くなっていたら困るじゃないか。
炭治郎は、家族の持ち物全ての埃を払って、磨いて、元の場所に戻していく。その繰り替えしだ。時々、煉獄が何かを言いたそうに背後に立つこともあったが、日が暮れるまで炭治郎は掃除に勤しんだ。
「元気にしとるか」
夕方になると、ほぼ毎日のように叔父の鱗滝が訪ねてくる。夕食にと差し出される紙袋を受け取った炭治郎のそばで、煉獄は不思議そうに紙袋を眺めている。こんなに大きな身体の天使が玄関先に立っても、鱗滝は全く気にしていない。やはり、人には見えない存在なのかもしれない。
「炭治郎、よかったら一つ仕事をしてみないか」
鱗滝は、返事も疎かな炭治郎の様子が気がかりなのだろう、そう言って短い白髪頭を掻いた。玄関の頼りない電灯が、ゆらゆらと揺れて薄い影を幾重にも床に映し出している。
「知り合いの飲食店が今、人手不足で困っておる……。店主が入院中でな。……手先の器用なお前なら手伝えるのではないかと思うが、どうだろう」
「鱗滝さん、俺は……」
「お前が店を気にしとるのは、わかっておる。それでも、働いていかねばならんだろう。儂らも手伝う、だからどうだろう」
「考えさせて下さい……」
紙袋を抱えて、炭治郎は口を固く引き結んだ。
「店とは、何だ」
紙袋ごと冷蔵庫に突っ込もうとする炭治郎を制しながら、煉獄が穏やかに問いかけてくる。応える必要性はないと思ってはいる。けれど、誰何する声に応えてくれる存在がいることに安堵し始めていた炭治郎は、ため息と共に「うちはパン屋だったんです」と零した。
「両親がパン屋を営んでいて、今は……休業中ですけど……いつか……」
そのいつかは、いつやって来るのだろうか。
「うむ、素晴らしいことだな!」
煉獄は冷蔵庫の扉をきっちり閉めて、おもむろに炭治郎の頭をワシャワシャと撫でてきた。
「ご両親のために、偉いことだ!」
「誰のためでもないですよ!」
反射的に、煉獄の手を払いのける。飛び出した言葉は、鋭いナイフのように心を抉っていく。
「今更店を開いたって、誰も帰ってこないのに! みんな帰って来ないのに! 一人で店を開いたって何も、何も元には戻らない……」
「それでも」
煉獄は、振り払われた手を伸ばして、この手に触れた。
「それでも、君の大切な店なのだろう」
何もかも全て吐露したわけでもないのに、この天使は実に物分りがいい。訳知り顔で慰めてくる。炭治郎は、もう何度目かになる涙を、煉獄の前でボロボロと零した。
人前で泣くことで、弱さを曝け出すことで、少しずつ自分の中で何かが変わるような予感がしていた。触れられた手を握り返しながら、そう炭治郎は思った。
煉獄が寄り添ってくれると、崩れてしまいそうな心がどうにか形を保ってくれるような気がした。寂しいと感じた時、気が付いたら隣に座ってくれる。そんな天使らしい、天使だった。
縁側で、何をするわけでもなく腰を下ろして月夜を過ごす時も、傍には煉獄がいた。彼は、あの夜のように翼を広げて夜空を飛んで行ってしまうこともなく、炭治郎の隣に居てくれた。日中も、どこにも出かける様子はなかった。だからそれが不思議で、炭治郎は膝を抱えながら彼に尋ねた。
「煉獄さんは、飛んで行かないんですか」
彼は、問い掛けられたことに少しだけ目を丸くしてから、その宝石のような双眸を柔らかく細めた。
「飛んで行ったら、君が悲しむだろうから」
「悲しみませんよ」
「いや、きっと泣いてしまうさ」
「そんなことないです」
「寂しがり屋の君を、置いて行きたくない」
触れそうで触れられない距離に座って、煉獄も月を見上げた。消えてしまいそうな細い月は、涙を流す人の目もとによく似ていた。多くは語らなかった、語り合うことはなかった。それでも、この時間はとても心地よいと思えた。
寄り添う夜に名を付けるとしたら、何がいいのだろうか。
ふと、足もとに落ちる影に目を落とす。どんなに平静を装って過ごそうとしても、寂しさというものはぬるりと人の心の隙間に入ってくる。じわじわと広がっていく黒い影。ガソリンの海、血の海、家族たちの物言わぬ姿──。
「……っ!」
ぞわりとした感覚に身震いをする。ふとした瞬間の隙間を、その僅かな隙を狙ってくる死の恐怖に、歯を打ち鳴らす。いっそのことこんな感覚から逃げ出してしまいたいと、裸足で庭に降り立とうとした肩を──引き寄せられる。
「行ってはいけない」
ただ一言、それだけを声にして煉獄が炭治郎を背後から抱き寄せる。逃げ出そうとする力は、彼から伝わる体温によって次第に失われていく。頬が濡れているのは、どうしてだろうか。何かが、自分の内で変わっていく。
煉獄は、炭治郎の震えが止まるまでずっと抱き締めてくれた。
消え入りたくなるような恥ずかしさに気が付いたのは、夜もすっかり明けてしまった布団の中だった。何がどうしてそうなったのか。煉獄の腕の中に抱かれたまま、炭治郎は彼とともに一つの布団に入り込んでいた。
彼の大きな翼のせいで、布団の合間に空気が入り込む。肌寒いはずの空気は、寄り添ったぬくもりによって打ち消されている。明け方なのにすやすやと眠る煉獄の顔に、こちらの頬に熱が集まっていく。背中越しに感じる優しさに、素直に甘えたらいいのに。
炭治郎は、真っ赤な顔でぐいと煉獄の胸を押した。
手の込んだ朝食を口にしつつ、今朝方の事や昨晩のことを思い返しては、口がへの字に曲がっていってしまう。天使だろうが、男だろうが──何だろうが、ホイホイ抱き合っていいものではないと炭治郎は思う。それなのに、向かい合って座る煉獄の嬉しそうな笑顔はどういうことなのだろうか。ニコニコと微笑み、炭治郎の食事を見守る彼に見つめられて、どんどん顔が赤くなっていく。こんな自分は嫌だ。染まりやすい自分が嫌いだ。
「もういいですから」
炭治郎は、箸を置いて険しい顔を彼に向けた。
「もうそばにいなくていいですから! 俺はもう、死にたいなんて──」
そうだろうか。死はいつだって自分のすぐ傍にいるというのに?
心の声に苛立ちを覚えて、勢い良く立ち上がる。煉獄は、目を丸くしていたような気がする。炭治郎には、彼の様子を伺う余裕などなかった。
「とにかく、もういいですから! 違う人に取り憑いて下さい!」
言い置いて、キッチンを飛び出して二階へと駆け上がる。階下から炭治郎と呼ぶ声が聴こえたが、それを無視して部屋に閉じ篭った。そうでもしないと、煉獄に気持ちが向いてしまいそうで、怖かったのだ。
触れて、触れられて。
それがただの体温だけならきっとこんなにも動揺していない。煉獄に抱きしめられたあの夜、胸が打ち震えている自分に気が付いてしまったから。だから見たくなかった、これ以上彼を見ることで、心をかき乱されたくなかった。
意地を張って立てこもること数時間。もともと、やることなんて掃除くらいなもので、時間が過ぎることに頓着などなかったけれど。
ふと、静かだと思った──。
煉獄は自分が掃除をすると言って部屋に篭っていた時、いつもどこにいただろうか。何をしていただろうか。
「煉獄さん……?」
自室の襖を引いて、恐る恐る声をかける。しんと静まり返った家には、応える声もない。当たり前過ぎる光景のはずなのに、進む足が震えていく。
「どこにいるんですか、出てきて下さいよ」
キッチンにも、脱衣場にもいない。玄関先で何か物音がしたと思い、弾けるように飛んで行って立ち尽くす。
どこにもいない──。
じわりと涙が浮かぶ。一人になんてもう慣れたと思っていた。一人でも生きていけると強がった。だけど、この広い家にひとりぼっちでいることに堪えきれなくて、あの夜飛び出したのではなかったか。
「行かなきゃ」
知らず、炭治郎は呟いていた。
「行かなきゃ……!」
靴を履くことも忘れて夜の街を飛び出していく。裸足の足には過酷すぎるアスファルトを蹴って、あの夜目指した場所へと駆けていく。誰も自分を止めることなどできないだろう。全てが全て、夜の闇に紛れてしまっているだろうから。
あの日の階段を一気に駆け登って、息を切らす。肩で息をしながら辿り着いた屋上には、ああ、誰一人としていない。自分よりも少し背の高いフェンスでぐるりと囲んでいるだけで、それさえ登ってしまえば終わりが待っている。
そうだ、待っている。
待っているんだと、炭治郎は泣きながらフェンスをよじ登った。この先に向かえば家族がいて、昔のようにあたたかい日々がやってくるのだ。腕が痛んでも、足が痛んでも、もうそんなことはどうだってよかった。ビルの眩むような高さなんて、気にもならない。
眩いほどの月に導かれるままに、夜空へと吸い寄せられるままに、フェンスを登り詰めた。生暖かい風が吹いて、炭治郎の濡れた頬に触れる。
いや、風ではなかった。
「炭治郎」
夜空に翼を翻した天使が、炭治郎の頬に両手で触れていた。彼は、今まで見た中で一番悲しそうな顔をしていた。
「君はどこへ行く気なんだ」
死へと誘う死神であれば、この手を引いて奈落へと案内してくれただろうか。炭治郎は、目尻に涙が溜まっていくことを感じながら、片手を煉獄に向かって差し伸ばす。どうしても、そうしないといけない気がしたのだ。
「あなたが……」
声が震える。誰もいない家。自分を待つ人がいない家。そういうものに慣れたなんて嘘だ。本当は、もうとっくに壊れてしまっていたんだ。
「あなたがいない世界なんて、ないも同じだ……」
フェンスを支えていた手を離す、足の力も抜いて飛び降りる。
落ちる、落ちていく。
自分だけ残されてしまったこの世界で生きる意味なんて、ないのだから──。
だけど、終わりなど来なかった。夜空へと飛び出してしまった身体を、抱きとめてくれる人がいたから。彼は白い翼をはためかせ、炭治郎を抱きかかえたまま夜空を駆ける。夜の空気を切り裂いて進む煉獄の腕の中は、泣きたくなるほどにあたたかいものだった──。

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