ワンドロワンライまとめ① - 2/4

心満たす、オニオンスープ

 

キッチンから、トントンと小気味よい包丁のリズムが刻まれている。
鍋の湯がグツグツ沸く音や、食材を包んでいる包装を剥ぐガサガサとした音とも相まって、それは不思議と心を穏やかにさせた。
それはきっと、自分以外の誰かの気配を感じられるからだろうし、幼い日に聴いた、懐かしい食卓の音に似ているからだろう。
ふいに母の顔が浮かぶ。
割烹着を着た母が振り返り、驚いたような顔をして膝を折っては、幼い炭治郎の頬に触れる。
「まだ熱いわね」と、慈しむように頬を撫でる母の手の心地よい冷たさに、無性に泣き出したくなったことを思い出した。

炭治郎はぼんやりと瞬きを繰り返し、常よりも熱い息を吐いた。今年に入って初めての発熱は思ったよりも炭治郎を苦しめたらしい。どれくらい眠っていたのか、よくわからなかった。ぬるくなった氷枕の上で寝返りを打つと、汗で貼り付いた肌着が気持ち悪い。
ぐにゃりと潰れる氷枕の中で、とぷりと水が跳ねる。もう冷たさすら失われたそれは、非常に不快だ。
「炭治郎」
静かな声に呼びかけられて、思うように動かない首を少し捻ると、エプロン姿の恋人が眉尻を下げて炭治郎のそばに寄った。カーテン越しの陽光が、彼の明るい髪を煌めかせている。
毛先に炎を宿しているせいだろう、彼が陽に当たると、余計に眩しく見える。いや、この場合は、自分が病んでいるせいもあるのだろう。彼の足取りは、病人にとっては頼もしいくらいに軽やかだ。
熱を出していなかった日常が何だか遠くに感じるほど、心は少し気落ちしかけているようだった。
キッチンから連れて来たであろう匂いを纏った彼は、いつか見た、母にもよく似た優しい眼差しをしていた。
「着替えようか、随分と汗をかいてしまったな」
そう言って、彼はテキパキと炭治郎のパジャマや肌着、下着に至るまで脱がせると、洗面器に湯を張って、そこにタオルを沈ませた。
あたたかいタオルで全身を拭ってもらうと、何だかとても気持ちがいい。新しいパジャマに袖を通して、再びベッドに横になると、熱とは違う、心地よい眠気が炭治郎の瞼を重くした。
ふいに、恋人の手のひらが彼の額に触れた。いつもなら熱く感じる人の体温が、今はとても肌に良く馴染む。彼は幾度かそうやって額を撫で、お腹が空いたらいつでも言ってほしいと、囁いた。
「おかゆでも、スープでも、何でも作ってあるから」
同棲した当初は料理もからきしだった人の、頼りがいのある言葉に、炭治郎はとろりと微笑みを浮かべて、再び眠りについた。

高熱が見せる夢はいつだって恐ろしい。
奈落の底へと落ちて行くような、ヒヤリとした心地を何度も味わい、いつか本当にそのまま死んでしまうんじゃないか、そういった恐怖に襲われるのだ。
何度も、何度も。
もしかしたら、心のどこかで、幼い日に亡くした父のことが思い浮かぶのかもしれない。
父は、炭治郎が物心つく前から病弱で、度々病院のお世話になっていた。それでも彼は、いつだって炭治郎を笑顔で見つめ続けてくれていた。少しも苦しいとか、つらいといった弱音を吐くこともなく、炭治郎が十三になる頃、空の向こうへと旅立ってしまった。風邪を拗らせ、ひどい肺炎になり、そのまま逝ってしまったのだ。
死した父の顔は、最後まで、微笑みに満ちていた。
そういうものがふいと過ぎるから、いつか自分も父のように眠ったまま、現実に帰れなくなるのではないかという、おそろしさがあった。
子供というものは素直で、純粋過ぎるから、高い熱を出して苦しみ藻掻く時に、この世との別れを感じて、がむしゃらに飛び起きては母の膝に縋って泣いた。
「大丈夫、大丈夫だからね」
その度に、母はどんなに忙しくとも、炭治郎のために膝をついて、泣きじゃくる幼い頬に手を添えて、笑みを見せてくれたのだ。長男なのに、長兄であるのに、高熱が生み出す悪夢に負けてしまう炭治郎を、母は決して笑うことなどなかった。
父を亡くした恐怖は、きっと母の中にもあっただろうに、それでも、怯える子供のためにいつも、何時も笑顔を絶やすことはなく、だからこそ、炭治郎もまた、どんな時でも笑顔でいようと決心したわけだ、けれど。
ああ、情けないな。
たかが、熱が見せる幻影に負けて、泣いてしまうなんて、情けない。

頬が濡れる感触に目を開けて、少しだけ軽くなった身体を起こした。部屋は、すっかり夜の色に染まっていた。
ベッドの上には一人きり。
ふるりと身震いをして、裸足のまま、ひたひたとフローリングの廊下を進んで行く。膝や脇がまだ痛み、喉も腫れ上がっていて、乾いた咳を零しながら、明るいリビングに向かうと、そこにも自分一人だった。
「杏寿郎さん……」
ガラガラの声でそう呼んでみたけれど、応えはなく、炭治郎はトボトボとソファに腰を下ろした。熱はまだあるのだろうか、身体のあちこちが軋んで気怠く、ほんの少し歩いただけで、息切れを起こしている。鼻は全く効かず、恋人の所在地を感じ取ることすらできない。
ふらりと身体が揺れて、ソファに身が沈む。ひんやりとした革張りのソファの冷たさは、炭治郎を拒むようで、不快だ。

遠い昔、まだ学生だった頃、教師であった恋人に「好きです」と告白したことがある。
「すまないが、君の気持ちには応えられない」
返ってきた言葉は当たり前すぎるほどの返答で、幼い自分にはどうにも覆せない言葉でしかなく、炭治郎はただ、ただ泣き崩れたのだ。
年上の人だからとか、教師だからとか、そういったものじゃない、彼自身が持つ優しさやあたたかさが好きだった。でもそれをうまく表現できず、彼の言葉に言い返すこともできず、悔やんでいた日のことが、どうして今になって思い出されるのだろう。

きっと、あの日、世界が色を失ってしまったように思えたからだろう。
けれど、あまりにも気落ちしてしまった炭治郎を憐れんでくれたのだろう、彼は告白を断っておきながら、炭治郎を自身の根城である社会科準備室へと招いてくれた。
「竈門、君の気持ちに応えられないのは、事実だ。君は生徒で、俺は教師だからだ」
それは、もしかしたら、泣きじゃくる子供をあやすためだけのものだったのかもしれない。
「でも、今だけだ。今だけは、君の気持ちに応えることはできない、……俺の言いたいことはわかるだろうか……」
彼の都合の良い言葉は子供心を如何ようにも浮上させられるし、いつだって下降させることもできる。
「君が卒業するまで、待っていてほしい……それまで、君の気持ちが変わらなければ……」
彼の言葉を信じて生きてきたけれど、心のどこかでは、いつかこんな子供じみた考えを持つ自分に、愛想を尽かしてしまうんじゃないだろうか。

今でも、怯えている自分がいるのだ。

再び目もとが濡れそぼっていく頃に、玄関のドアが開く音が聴こえた。それは、寝ているであろう炭治郎を気遣うように静かに開かれ、そっと閉じられたようだったけれど、そのほんの微かな人の動きにすら、喜んでいる自分がいた。
やがて音もなく彼がリビングに訪れた。
一瞬、息を呑む気配がして、それから手にしていた荷物を放り投げる勢いで、ドタドタと足音を立てて走り寄り、彼が炭治郎のそばに膝をついた。
コートとマフラーを外す暇もなく、外の冷気を纏ったまま、彼の手が炭治郎の頬へ触れた。冬の冷たさが移った手はひやりとしていて、残りの不快な熱を奪ってくれるみたいだった。だから、炭治郎は頼りなく笑って、その手に手を重ねた。

「つらいときや、寂しい時に、それを言葉にするのも大切なことだ」
炭治郎はふかふかの毛布に包まれながら、杏寿郎が向ける穏やかな声に頷き返した。
彼は帰宅早々、手早く炭治郎を毛布で包み、ベッドへと連れて行こうとしたけれど、炭治郎はそれを拒んだ。誰の気配もない空間が嫌だと、掻き消えてしまいそうな言葉を零した恋人を、ソファの上に座らせてくれたのだ。

そうして彼は急ぎ手洗いとうがいを済ませ、コートとマフラーを所定の位置に置くと、キッチンから小さなマグカップにほかほかのスープを注いで、炭治郎の手に渡してくれた。
両手で収めたスープは、琥珀色の水面にまろやかな湯気を漂わせていた。ゆっくりと口をつけると、舌の上にコンソメの柔らかい味が蕩ける。
泣きたくなるほどの味がした。
「君は頑張りすぎだ、それも褒められるべきことだろうけれど、それでも俺は、君から弱音を吐いてもらえることを期待しているんだ」
杏寿郎は、炭治郎の隣に座った。寒気に襲われる背中を擦る手のひらが、とても愛おしい。声はどうしたって掠れて、上擦って、ひどいものだったけれど、炭治郎は「こわいんです」と、零した。
「熱が出ると、とてもこわいんです、父さんのところへ行ってしまいそうで……」
ひと呼吸置いてから、炭治郎は言わなければならない言葉の糸口を探して、目線を彷徨わせた。
彼は、その様子をじっと待ってくれる。こういう人なのだ、あの日から、ちっとも変わることなんてない。
「俺、杏寿郎さんにとっては……子供でしかないから、いつか……」
続く言葉を紡ぐ勇気が出ない。
下を向いたまま覗き見るオニオンスープに、情けない顔の自分が映る。薄っすらと涙を浮かべた、子供の顔をした自分がいる。
「いつか……杏寿郎さんの心が離れたら、嫌になっちゃったらどうしようって……いつも、こわくて……離れたくない、杏寿郎さんと……離れたくない……そういうの、こわい……」
零したくない涙が、するりと頬を滑り落ちる。
病は心を弱くしてしまうから、常よりも不安が膨張して、たまらない気持ちになる。
ふと、背中に触れていた手が、労るように肩を優しく抱いた。
「……うん、こわいな……」
続く言葉に、そろりと顔を上げる。そこには、誰よりもずっと、柔和な顔立ちをした人がそこにいた。
「大丈夫、君は……どこへも行かせないから……、俺がそばにいるよ」

その言葉は、今飲み干しているスープよりもずっとずっと深く、臓腑よりも更に奥深く、胸の奥へと染み渡っていった。
たった一言、魔法でも何でもない言葉が、人を救い出せる。そんなことがある今が、泣きたくなるほどに好きだと、炭治郎はその味を何度も飲み干した。

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