願わくば、ただ……
朝と夜の境界線。
白い吐息を零しながら、ベランダの柵にもたれ掛かるようにして眺める空は、少しずつその境界を溶かしていく。
朝が来る。
空を縁取る、黒いビル群の向こうから。
闇夜の天蓋をそっと持ち上げて、明るい今日が、まだ夜の眠りに甘えている街を、揺すり起こす。誰も彼もが、この朝の光に瞼を擽られ、新しい一日を始める。
この瞬間が何よりも好きなのだと、煉獄は目を細めた。
ベランダから部屋に戻ると、エアコンの暖かい空気が煉獄をそっと包み込んだ。外は随分冷えていたようだと、その気温差で感じ取れる冬もまた、好きである。
殊に、拾いベッドの上で今だに、深い眠りの中にある恋人の姿を見とめると、もっと愛おしいものが胸に込み上げてくるのだ。
レースカーテンを通して、少しずつ朝の気配を帯びる空気の中、足音を忍ばせてベッドの端に腰掛けた。
「……炭治郎……」
夢の中はよっぽど心地良いのだろう、彼は掛け布団をぎゅうっと腕に抱き込んで、あどけなさの残る顔で眠りについていた。ついこの間成人したばかりの頬は瑞々しく、寝息を立てる唇は果実のように艷やかで、彼の持つ若々しさを感じさせるには充分だ。
その唇に、触れるだけのキスを施して、煉獄はふっと笑みを零した。
そうだ、まだ成人したばかりの若者だ。
初めて出会った時など、制服に着られているような、幼い少年でしかなかった。ただ、真っ直ぐにこちらを見つめる赫灼の瞳は、百年前に見た色と瓜ふたつ、変わらぬ美しさを保っていた。
煉獄には、前世という不可思議な記憶があって、けれど、炭治郎にはそういう記憶は一切無かった。
前世では鬼を狩り、鬼を斬り、夜を駆けた。
自分は炎柱として、鬼殺隊の中でもより多くの任務をこなしてきた。炭治郎は当時、まだ入隊したばかりの年若い剣士だった。
かつての記憶を辿れば、彼は、家族を鬼に惨殺され、唯一生き残った妹は鬼となり、彼女を人に戻すため、それだけのために鬼狩りとなったはずだ。
そこには、自分も知り得ぬほどの葛藤や苦悩もあっただろう。煉獄が命を落としてからの彼を知る由もないが、それでも、人よりもずっと過酷な運命を歩んだはずである。
そんな記憶など、無いほうが幸せだ。
僅かでも前世と関わりのあった自分など、尚更、彼の人生には必要のない存在だ。そう思っていた。
「ハンカチ、落としましたよ」
朝の通勤ラッシュ。混雑する駅のホームで、彼は慌てたように走り寄って来ては、ぽんと煉獄の肩を叩いた。雑踏の中で踏まれて、ゴミ屑のようになってしまっても構わないような、それほど重要なものでもないそれを、彼は大切そうに手に持ってくれていた。
「お兄さん、これ、お兄さんのですよね」
真新しい制服に身を包んだ学生は、人好きのする優しい微笑みを浮かべて、ハンカチを差し出した。
その瞬間に気がついたのだ、彼があの、鬼殺隊の竈門炭治郎であると。
百年ぶりの再会なんて、そんなもので、劇的な変化でもなかったのに、煉獄はその瞬間に運命を感じ、そして、その得も言われぬ不安に、慄いた。
「いや、それは……捨ててくれても構わない……」
「捨てるなんて勿体無いですよ、物は大切にしないと!」
差し向けられた運命を振り払うのは簡単なことだ。
彼からの好意を受け取らなければいい。
自分と関わることで、要らぬ前世の記憶を思い出せることだけはしたくない。せっかく、平和な世に生きているのだから。
しかし手は、己の声を裏切って彼の手を取る。
「わかった……ありがとう、いつか礼をさせてくれないか」
口は、この先の関わりを求めて言葉を紡ぐ。一周りも歳の離れた幼い彼は、目の前に立つ人物が誰であるかなんて知らずに、幸福そうに笑った。
それから、朝のホームで出会う度に挨拶を交し合い、彼が母校の生徒であることを知った。共通の話題が出てくれば、自ずと親近感が湧くもので、気が付けば随分歳が離れているのに、お互いの趣味まで語り合えるほど、打ち解けていった。
転がるようにとは、うまい言葉だと思う。
彼の輝く瞳に、彼の優しい笑い声に、友人とは違う、特別な感情を抱いてしまうのは、実に簡単なことだった。
けれど自分は責任のある大人で、彼は子供だ。
そして、前世では煉獄の死を看取った少年だ。
彼を思って胸を震わせるのは勝手だが、それを幼い子供に差し向けるのは、あまりにも身勝手だと思った。だから、煉獄は炭治郎にとっての、歳の離れた兄のような役割を演じ、その特別な感情をひた隠しに生きていくことにしたのだった。
しかし、彼の嗅覚が人並外れているとは思いもしなかった。
「煉獄さんから、時々、えっちな匂いがしてくるんです」
出会ってから一年ほど経った、真冬のホーム。
炭治郎は耳を真っ赤にさせつつ、確かめるようにこちらを見上げた。いつになく、真剣な眼差しだった。
「えっち……」
通勤時に聞いていい言葉ではない。
煉獄は大きな目を、これでもかと見開いて、その場に硬直した。周囲の人々は、それぞれの朝に慌ただしく、二人の空気が変わってしまったことに気付くことはない。
「俺、鼻がいいんです……煉獄さんは、俺のことを……そういう目で見ているんですよね?」
暗に、いやらしい目で見ているのだろうと責められているようだった。口は、否定の言葉を紡ごうとしたが、不意をつかれて、うまく開くことはなかった。
「俺も……煉獄さんを、そういう目で見てます……」
彼は、真っ赤な顔を隠しもせずに、臆することもなく、煉獄を見返している。その目は、最初に出会った時から、そう、百年前から変わることのない色をしていた。
「俺も、えっちな目で、煉獄さんを見てます……」
正直で、素直で、真っ直ぐなその心に、自然と心が解されてしまったのだ。
煉獄は、僅かに目を伏せてから、その眦を朱に染めた。
「気持ち悪くないだろうか、こんなおじさんが……君に好意を寄せているなど……」
「気持ち悪くなんてないです、貴方を悪く言う人は、例えあなたであっても、俺が許しません」
百年の時を経ても、少年は強い心の持ち主であった。煉獄はその場で観念し、君に気があると告げた。返ってきたのは、彼もまた、煉獄に淡い恋心を抱いているという、素直な言葉だった。
歳の差を理由にして諦めさせようと思ったけれど、炭治郎はひどく頑固で、煉獄との仲を一歩深めたいと主張した。
若さ故の情熱に、煉獄のほうが折れるのは時間の問題だった。
そういうわけで、炭治郎の在学中は、決して恋人らしいことはしないと誓い合い、煉獄と炭治郎は交際をスタートさせた。順調であったかと言うと、そうでもない。人並みに恋人らしい衝突も誤解もあった。そうした中で、心は少しずつ寄り添い合い、重なっていった。
前世の記憶という、異質なものを除いては、二人はとても順調に、恋人としての道を歩いてきたように思う。
今年は、炭治郎の成人を機に、同棲を始めたばかりだ。彼には何も、一欠片すら鬼殺隊の記憶はないままだ。
それがきっと、幸せなのだと、煉獄は信じて止まない。
部屋が明るみを増していく、いつもの休日、少しだけ早い目覚めの朝が訪れる。炭治郎はもぞもぞと布団から這い出して、すぐそばに煉獄がいることに気が付いて、飛び跳ねるように抱き着いた。
「杏寿郎さん、おはようございます!」
「ああ、おはよう、炭治郎」
彼の細い腰を抱き寄せて、それが当たり前だとばかりに、そっと唇を合わせる。
そうやって、互いを思い合う瞬間に、過去の自分の記憶など必要だろうか。そんなものに縛られたままで、歩んで行けるだろうか。
煉獄は、ふくふくと笑う炭治郎の頬に手を添える。それに応えるように、手を重ね合わせてくれる彼を、心の底から愛おしいと思う。
この気持ちに、間違いなど、ありはしないのだから。
百年前の朝日も、今こうして部屋に降り注ぐ朝陽も、その根源は同じなのだと言うのなら、これから百年先も変わらず、この人を照らし続けてほしい。
ただ、それを願う。
痛ましい記憶など、もうこの世には必要ないものなのだから、ただただ、幸福であれ、と。

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