こんなのコンプラ違反だ
「こういうの、コンプラ違反って言うんですよ」
手のひらの中におさめたマグカップの存在に口を尖らせると、窓辺に立ってコーヒーを飲んでいた教師が眩しそうに目を細めた。弁解するつもりも無いのだろう、彼はしばらくそうやって静かにマグカップに口をつけながら、俺がココアを全部飲み干す様を見守っていた。放課後の社会科準備室、手伝いがあるからと呼ばれて来てみれば、コンプライアンス違反すれすれのお茶菓子の接待ときたものだ。
俺と、教師の二人きり。
ドアにはいつもご丁寧に鍵を掛けて、誰一人寄せ付けないように仕組んで、俺にココアを飲ませる。
これのどこが、コンプラ違反じゃないと言えるのだろう。
最初は、ひと粒のキャンディーだった。
新一年生、初めての社会科係に任命されて張り切っていた俺は、教師が頼んでいないにも関わらず、率先して彼を助けていた。授業で使う資料を運ぶ教師の姿を見れば、走っていって彼を助け、また教師が板書の際にチョークを取り落としでもすれば、スライディングさながらにそれを拾った。彼はそこまでしなくてもいいと言っていたのに、俺はどうにもお節介だから、ついつい彼の役に立とうと動いてしまうのだ。
だから、手のひらの上にころんとひと粒、飴玉を落とされた。
放課後の社会科準備室、小テストの答案用紙を束ねて持って行ったお礼にと、教師の少し白っぽい指が俺の手のひらの上に、それを乗せた。熱っぽい指先がちょんと触れた場所に甘い痺れが伝って、俺は真っ赤な顔を俯かせながら、キャンディーを握り締めた。
きっと、そういう俺の反応が面白かったのだろう、それからも教師はことあるごとに俺を呼び付けて、お菓子や、ココアをご馳走してくれた。最初のほうは、何だか誇らしい気持ちで頂いていたけれど、こういうことをするのは自分だけなのではと考えると、妙に気恥ずかしい気持ちになって、素直に受け取ることができなくなった。
彼からのお茶菓子の接待も、ニ年生ともなればごく当たり前の光景となった。
君が好きそうだから買ってきたんだ、と、差し出されたバウムクーヘンと彼の顔を見比べて、俺は不服そうに唇を尖らせた。別にバウムクーヘンが嫌いだからではない、むしろ大好物だ。
「何でこういうことするんですか……こんなの……」
こんなこと、いち生徒にするべきことじゃない。頭ではわかっているのに、彼から与えられるもの全てを取り零したくなくて、悪態をつきながらも、何もかも全部受け取った。教師はいつも、俺がその贈り物を全て平らげる姿を、目を細めて見つめていた。窓辺に立ったまま、決して俺の横には座らず、俺のことだけを見て、微笑んで。
彼の視線に捉えられる度に、頬が熱くなって、俯くことばかりが増えてしまった。胸は弾け飛びそうだし、また次回もここに来たいと思わせているのだから、きっと教師は巧妙な策士なんだろう。
飲み干したココアは、甘くて堪らなかった。
今年のクリスマスは平日で、それも終業式と同日だった。クラスメイトたちは親にどんなプレゼントを買ってもらったのかと、可愛らしい話題を広げていたり、下校したら少しだけ遊びたいと、今から始まる年末年始の冬休みを楽しみにしていた。
ほんの数日とは言え、お正月があるということが、新しい年を迎えることが、若いながらにも新鮮でとびきりのイベント事に見えるのだろう。
西暦が変わり、新しい干支になる。同じ干支だった年を思い返せば、自分たちは随分成長したなんて、感慨深い気持ちにもなる。あの頃よりは子供ではなくなったと、子供の顔のまま誇らしげに胸を張って。俺も例外ではなく、友人と初詣の約束をして、その日はめいっぱい遊ぼうと、笑顔を見せていた。
でも、ふと、鞄の中に仕舞った物に気が付いて、人知れず小さくため息を零した。
いつも貰ってばかりだから、今日はクリスマスだから、別に何かしら他意があるわけではないのだ。
つらつらと言い訳を並べながら、俺は終業式を終えて彼の待つ社会科準備室に訪れて、震える手で小ぶりな袋を手渡した。
誰がどう見てもクリスマスプレゼントでしかないそれを、気まぐれで貴方にあげるんですよと嘯いて、彼の胸に押し付けた。すぐに部屋を辞そうとした俺を、彼はご丁寧に鍵を掛けて阻んだ。ココアでも飲んで行くといいとソファに座らされて、ささやかだけどクッキーをご馳走になって、俺は真っ赤な顔で身を縮こまらせた。
教師はプレゼントを開けてもいいだろうかと問いかけて、俺は別にいいですけど、別の物がいいって言っても交換できませんし、返品は受け付けていませんからと、つっけんどんに返した。
彼は、君からの贈り物を無碍にはしないよと微笑み、袋から出した手編みの赤いマフラーに、これでもかというくらいに目を見開いた。その美しい瞳が煌めくのを直視したくなくて、俺は次から次へと言い訳を述べる。
妹たちが今編み物に夢中になっていて、それで俺も付き合わされて作っただけで、言わばただの練習作品で、市販品よりもずっと不格好だし、こういうの作っても誰も貰ってくれないだろうし、捨てるよりはいいかと思って貴方にあげるんです、特別な意味はないですからね、ひとつだって無いんですからね。
のべつ幕なし喋り続ける俺の言葉が尻すぼみになって床に零れ落ちる頃に、教師はありがとう大切にすると、とびっきりの笑顔を見せてくれた。終業式も終えたのだから、教師にクリスマスプレゼントを渡せたのだから、お昼ご飯のために帰宅しなければいけないのに、何だかここから離れがたくて、俺はドアの鍵に触れて、先生が嫌じゃなかったら……と、唇を震わせた。
彼は少し迷うような素振りを見せた。このドアに鍵を掛けてしまうくらい、俺を逃したくない癖に、自ら飛び込んで来た子供への対処の仕方を知らないみたいだった。
せっかくのクリスマスだし、先生は恋人とかいないようですし、先生が独り暮らしだって知ってますからね、これからお仕事を終えてひとりっきりの家に帰るより、俺といたほうが絶対に楽しいですし、後悔はさせませんから、少しくらい、一緒にクリスマスを過ごしたっていいじゃないですか。
拗ねるような物言いをする俺に、彼は蕩けるように笑って、じゃあ、まずは親御さんに連絡だなと、スマートフォンを耳に当てた。丁寧な物言いで電話する彼の姿に、やっぱり大人なんだと胸を弾ませて、仕事があるから少しだけ待たせてしまうけれどいいだろうかと問われて、一秒も待てなかったけれど、いくらでも待てると大人ぶった。
教師に連れられて食べたラーメンは美味しかったし、普段見ることができない素の彼と共にいられて、何だかこそばゆい気持ちになれた。
彼は教育指導の一環で商店街を見回ることもあるのだと言って、俺と並んでクリスマス一色に染まった商店街を歩いた。時折行き過ぎる同級生たちは、教師に補導でもされたのかと憐れみの目を向けてくるけれど、別にそれでもよかった。学校以外の場所で教師と隣り合って歩けることが誇らしかったし、自分がプレゼントした手編みのマフラーを巻いた教師を、世界中の誰もに自慢したい心地だった。
見てくれよ、この人は俺が編んだマフラーをしてくれているんだ、嫌な顔一つせずに、大切な宝物でも貰ったみたいにして笑うんだから。
次第に明るみを増す商店街の景色は、教師との束の間の逢瀬の終わりを告げる。
彼は教師然としたスーツにコートを身に着け、自分もダウンを羽織ってはいたものの、その下は明らかに学生の身なりでしかなかった。隣り合って並ぶにしては、年齢差が大きくて、夜へと変貌を遂げる街には不釣り合いだった。でも、どうしても離れがたくて、そろそろ家に帰るといいと促す教師に、静かに首を振った。
別に、違うんです、貴方とずっと一緒にいたいわけじゃなくて、家に帰りたくないとか、そういうのでもなくて。
続く言葉が見つからず、どうしたらいいのかと迷い子のような目で教師を見上げると、じゃあ、ついておいでと手を引かれた。その手のぬくもりに、笑みが零れてしまったことは、内緒にしておいてほしい。
「前にも言いましたよね、こういうの、コンプラ違反って言うんですよ」
教師の運転する車に乗せられて、知らない街を通り抜けて行く。
もう遅いから送ってあげようなんて甘い言葉で俺を騙して、そうして彼は家とは全然違う方向へと車を走らせた。すっかり日が落ちて、街中のイルミネーションが眩しい街道沿いを進み行く。どんどん見知らぬ景色へと変わっていき、少し不安を覚えたところで車はゆっくりと駐車場へと滑り込んだ。
助手席のドアを恭しく開けられて、差し出された手を戸惑いながら掴んだ。教師はどこかほっとしたような顔をしていたけれど、大の大人が子供を夜道に連れ出すなんてどうかしている。
ふくれっ面の俺の手を引いて、俺と教師はとても明るい街の中へと飛び込んだ。
駅前の見上げる程に高いクリスマスツリーは、眩い電飾に着飾って胸を張っていた。
一年で一番贅沢な煌めきに彩られる日だ。
辺り一帯が夜を忘れてしまったみたいに、どこもかしこもピカピカで、人々はこの夜の、夜でない輝きにうっとりと息を吐き、写真におさめていた。
教師も例外ではなく、俺をツリーの前に立たせて何度もスマートフォンのカメラで俺を撮っていた。何が楽しくて教え子の写真を撮るというのだろう。
ほら、可愛く撮れたよと、教師が仏頂面の俺を捉えた写真を見せるから、むっとした俺は、ぐいと彼の腕を引いて、素早くスマートフォンのシャッターを切った。
教師と俺との背丈には差があるから、俺が撮るとどうしても彼が見切れてしまう。無意識に唇を噛んでいると、俺の意図を正しく汲み取ってくれたのだろう、彼は少し腰を屈めて俺の腰を引き寄せ、息が溶け合いそうなほど頬をくっつけて、写真を一枚。
「……コンプラ違反だ、こんな……」
触れ合ったのは一瞬なのに、まるで彼の高過ぎる体温が全身に移ってしまったかのように、身体中が火照って仕方がない。俺は、彼が撮ってくれた二人きりの写真を眺めて、白い息を吐いた。胸を震わせながら振り返ると、教師は悪戯が成功した子供のように歯を見せて笑った。
手の中におさめたスマートフォンの中、瞬くイルミネーションに縁取られ、ぎこちなく唇を合わせる二人のシルエットが浮かび上がっていた。

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