エピローグ
やれるだけの家事を終えた、休日前夜。
俺は眠い目を擦りつつ、リビングテーブルに分厚いアルバムを広げる。アルバムはナンバリングしてあって、今月でもう四十冊を超えている。ページ一枚一枚に写る思い出の多くは、被写体である俺ばかりだ。キッチンに立つ姿、本を捲る姿、時には休日の寝ぼけ眼の姿すら収められていて、カメラマンである恋人に一言物申したくもなる。けれど、時折スマートフォンのインカメラや、人に撮ってもらったツーショットも混ざっていて、そういう時は決まって、ページを捲る手が止まる。
写真の中、彼の燃えるような瞳の色が俺を捉える。例えただの写真だとしても、何年もきっと何百年先でも俺の心を捉えて離さない人なんだと思う。そっと、印刷された彼の輪郭をなぞって、俺は恋をしたばかりのような甘酸っぱい心地に目を閉じる。
何年も、いや、百年も前から俺たちは恋人だった。
そのことを自覚するまで、随分と時を必要としたことを思い出す。リビングに飾られた、写真立てが煌めく。互いに揃いのタキシードを着こなし、カメラレンズに向かってはにかむ写真に見守られながら。俺は遠い記憶に思いを馳せる。
**********
親友である善逸と伊之助からすれば、俺と煉獄先生はお似合いの恋人同士であるらしい。尤も彼らだけではなく、俺たち二人を取り巻く人々からも、この交際関係は許されている。煉獄先生のご両親。父も母も、兄弟たちも皆、俺たちを祝福してくれている。
だけど俺は、その当時煉獄先生と恋人関係であるという事実を飲み込めないでいた。面と向かって、煉獄先生のことが好きだと言ったし、彼からも君を愛しているとも言われたのに、それでも俺はまだ、煉獄先生の恋人だとは思えないでいたのだ。
だって俺は、先生と過ごす時間の全てを覚えていられなかったのだから。
その日は、煉獄先生の腕の中に抱きとめられていた。彼の胸に頭を預けるような形で自ら抱きついて、膝の上に乗り上げているというのに、それなのにどうして今そういうことになっているのか、わからなかった。
とくとくと脈打つ先生の鼓動を耳にして、やっとこういった状況に気が付くから、俺はいつだってパニック状態だった。
「す、すみませんっ!」
そう言って彼の腕の中で藻掻き、その腕から逃れようとするも、先生はより一層強く俺を抱き締めて、逃してはくれない。熱い吐息が首筋に触れて、肩が跳ねる。
「どうした」
「あの、俺……先生に失礼なことをしていて……」
子供みたいにべったり抱きついてしまって。
「今、その、離れますから……っ!」
「離れないでくれ」
先生の目が、戸惑う俺を捉える。燃えるような瞳の中で、俺だけが間抜けな顔をしている。
「口付けがしたいと言ったのは、君だろう」
「そ、んなこと……」
記憶にない。
俺の記憶が正しければ、ここは煉獄先生の家で、俺はただお泊りに来ただけなんだ。彼の両親と、弟の千寿郎君がハワイ旅行に行っていて、その間のご飯と家事をやりたいと、身勝手なことを言っただけで。
「言ってないです……そんな、破廉恥なこと……」
「破廉恥か」
「破廉恥、です……」
とは言え、先生の逞しい膝の上に乗ってしまっているのは確かだ。そして緩く勃起している下半身を、彼の腹に擦り付けてしまっているのも、事実だ。ちらと先生の顔を窺うも、俺のやんちゃな身体変化に彼は気付いているようで、あたたかい手のひらで俺の背を擦るように撫でてくれている。
「炭治郎、目を閉じて」
反射的に先生の胸に顔を埋めて、いやいやと首を振る。まるで子供みたいだ。いや、子供なんだから仕方ないんだけれど。でも、どうしてこういう状況になったのか、全然思い出せないから、混乱しているんだ。
ふと、敏感な切っ先がより強く先生の腹部に当たったらしい。
「あっ」
漏れ出た声を塞ぐように両手を口もとへと持っていく刹那、あっけなく彼に両手首を捉えられた。先生の熱っぽい瞳に焼かれるままに口付けられた唇は、まるで炎のように熱く、焦がれるようだった。
そこから一瞬間、時間にしてどのくらいの時が経ったのだろうか。俺は意識を飛ばしてしまったみたいで、気が付いたら下着もズボンも、精液でぐっしょりと濡れた状態で、煉獄先生の腕の中で呼吸を荒くしていた。
そう、過程がないのだ。
結果しかない。
きっと俺と煉獄先生はディープキスをして、勝手に俺だけが気持ち良くなったんだろう。
そうなんだろうな、きっとそうなんだろうな。
目頭が熱くなって、頬に涙が流れ落ちていく。
煉獄先生は、俺が恥じ入って泣いてしまったのだと思ったことだろう。だけど、本当のところ俺は、肝心な部分の記憶がないことに、悲しさを感じていた。
好きなんだ、先生のことが大好きなんだ。
手を繋いで、抱き締めて、キスをして、恋人らしいことをする。その当たり前の行為をしているはずなのに、俺にはその記憶が残らない。
だから俺には、恋人としての実感がない。
汚れた下着とズボンを洗濯機に入れて、俺は煉獄先生に勧められるままお風呂へと入っている。先生は「一緒に入ろうか」なんて、悪戯っぽく片目を瞑ってくれたけど、畏れ多いからと丁重に断った。
無理だ、そんなの。煉獄先生の裸なんて、見られない。絶対にかっこよくて、また猿みたいに発情してしまいそうだから。
程よい温度のお湯の中、膝を抱えるように座って深い吐息を零す。先生と俺は、本当に恋人なんだろうか。俺が勝手に恋慕して、それに煉獄先生が従ってくれているだけじゃないだろうか。彼はいつだって優しい人だ、昔から──。
「昔って、いつのことだ……」
零した言葉の裏側で、宵闇の中で激しく燃え上がる篝火を見た気がした。けれどそれが何かよくわからなくて、だからこそ俺は意識の奥へ落ちようと、目を閉じた。
覚えている。
いちご狩りのあの日、君の心を掴みたくて手を取った。けれど、君から伝わった切ないほどの恋心に驚いて、この手を離してしまったこと。
彼のために料理教室に通った日々のこと。彼に手料理を食べて貰えて、嬉しくてつい気持ちを抑えきれなくなり、恋心を吐露したあの日のことも。
病床に横たわる俺の傍らで、君が涙ながらに愛を訴えてくれた日のことも。それを拒み、君の心に深い傷を負わせてしまったことも。
全部覚えているのに。
それなのにどうして、俺は今この瞬間の君との恋模様を覚えていられないのだろう。
生ぬるい風に身を包まれたような気がして目を開ければ、俺はぼんやりと美しい木目が織り成す天井を見上げていた。
「気が付いたか」
問われて、声がしたあたりへと首を向けてはじめて、布団に寝かされていることに気が付いた。鼻先へと届く、煉獄先生の濃い体臭。彼の寝具に間違いないだろう。
「すっ、すみません!」
冷水を浴びたような気分になって飛び起きようとした俺を、先生はやんわりと肩を押すことで制した。
「湯あたりしたんだ、少し横になっていなさい」
ぽんぽんと、宥めるように肩を軽く叩かれて、俺は再び布団の上に背を預ける。煉獄先生は着替えたのだろうか、赤茶色をした着物を身に着けていた。学校ではパリッと糊の効いたシャツを着ているけれど、実家では古風な服装で寛ぐことが多いのだ。淡く開いた合わせ目から、汗ばむ胸板が見えた気がして、咄嗟に目を逸らす。
「気を失っていたから、勝手に着替えさせてもらったよ。気分はどうだ、喉は乾いていないか」
そう言って、額に触れる煉獄先生の手があまりにもあたたかくて優しいから、自然と目もとに涙が溢れだしてしまった。こんな情けない姿なんて見せたくないのに。
「先生」
「どうした」
「俺は、先生の恋人ですか……」
「違うのか」
頬に触れる手の大きさに怯んだ日は、とうの昔に過ぎたはずなのに、まるで初めて触れられたみたいに肩に緊張が走る。
「覚えて、なくて」
先生が前かがみになって、泣き言を口にする俺の顔を覗き込んでくる。金糸の髪が、まるで鳥籠のように俺を包み込んで、閉じ込めて、どこへも飛んでいってしまわないように鍵を閉める。寝転んだ俺の身体の上、掛け布団を跨ぐように伸しかかった彼の重さに、とくとくと胸が逸る。
目を閉じたら、キスをしてくれるだろうか。
触って欲しいと言ったら、余すことなく触ってくれるだろうか。
けれどきっと、俺はその全てを覚えていられない。いつだってそうだ、気が付いたら全て終わってしまっている。行為の仔細も知らず、その時の感情も、交わした言葉すら忘れて、俺は恋人未満のままに身を固くするだけなのだ。
「煉獄先生……俺は、先生の恋人ですよね……」
「炭治郎」
「先生の恋人でありたい、いつだって、あなたの恋人でありたい、これから先も、どんな未来が来ても」
「君が、覚えていられないことは知っているよ」
何もかもを悟ったような微笑みを浮かべた人の目尻に、真珠のような涙が見えた気がした。それは、小雨のようにこの頬に降り注いで──きっと俺たちは、愛を紡ぐのだろう。彼との接吻に期待を寄せて瞼を閉じてしまった俺にはもう、その先を知ることはないけれど。
「大丈夫だ、炭治郎。俺はずっと、百年先も君の恋人だよ」
ああ、目覚めたくない。目覚めたら、先生との逢瀬を忘れてしまうんじゃないだろうか。
恐れなくていいよ、そんな声が聴こえた。
目を開けると、柔らかな白雲が綿毛のように浮かぶ真っ青な空を見上げていた。驚いたことに、足元にも蒼空が広がっていた。足先に濡れた感触があって、その青い空を目で追えば、地平線の先へと続くような広大な水面なのだと、吐息を零しながら気が付いた。
天も地も、澄み切った青い空が広がる世界。
こんなにも広い水を湛えているのに、足元も身体もぽかぽかしている。不思議だ、胸の奥ですらもあたたかさがある。
「杏寿郎さんを、よろしく頼むよ」
人の声がして振り返る。自分と似たような顔をした少年が、緑と黒の市松模様の羽織を身に着けて、水面に立っていた。刀のようなものを腰に携えている。いつから居たのだろう、いや、さっきは居なかったはずだ。混乱している頭に、彼の静かで穏やかな声が届く。
「人が持てる記憶の量には限界がある。俺は過去も現在も、全てをくまなく覚えていることはできないだろうけど」
彼の耳もとで、俺と同じ耳飾りが涼やかな音を立てる。
「それでも、杏寿郎さんのことだけは覚えていたいと思う。君も、そうだろう?」
彼の言葉の意味はよくわからなかった。記憶なんて言われても、瞬間的な記憶すら忘れてしまう俺には、何だかずっと遠くの、知らないどこかの出来事のように思えた。
だけど、俺とよく似た顔の少年の慈しむような笑顔に見守られると、どうしてだろう、胸に溢れるほど熱い何かがこみ上げて来るような気がした。熱くて熱くて、けれど火傷するような熱さではない、悲しい心を溶かすような。
そんな優しい熱さだった。
唇に触れる熱が、意識を揺すり起こす。鼻を抜ける甘い吐息は、誰のものだろう。自分だろうか、それともこの口付けの相手だろうか。
この人は、俺が求める人だろうか。
両手を伸ばしたその頬の熱さ、そっと開いた目が捉えた篝火のような美しい瞳──煉獄先生。
「まだ身体が熱いか、そんなに泣いて……」
太い指先が、この濡れた目もとを拭う。たったそれだけのことなのに、嬉しくてたまらなかった。記憶は続いている。ほんの瞬き程度の夢を経て、俺はちゃんと現実に居る。俺の顔を心配そうに覗き込む人の衣服は、つい先刻と変わらぬ着物姿だ。俺も変わらず、布団に寝かされている。
途切れていない、記憶にズレがない。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
「煉獄先生っ!」
「わっ、どうした」
俺はしがみつくように、煉獄先生の首に腕を回して引き寄せた。急な俺の動作に驚きつつも、この身体を潰さないようにバランスを保つ煉獄先生を、愛おしく感じる。肩口に彼の鼻先が触れて、やがてゆっくりとその大きな身体を布団越しに俺のそばに横たえた。逞しい腕が滑るように頭の下に差し込まれて、二人の鼻先が触れ合う距離。
「先生、今からセックスしてくれませんか。俺、一秒だって先生のこと、覚えていたいから」
「急だな」
目もとを撓ませる煉獄先生からは、拒絶の匂いはしない。
「キスをしたら、そういう気分になったんです。先生だって、そういうこと……あるでしょう?」
「はは、さて……どうだろうな」
辛抱たまらなくて掛け布団を足で蹴るように引き剥がして、煉獄先生の腕の中へと転がり込む。俺の気持ちを正しく汲み取ってくれる素敵な人は、掛け布団が剥がれると共にこの腰を引き寄せるようにして、抱きとめてくれた。
少し汗ばむ彼の首筋に鼻を寄せる、ああ、欲情の匂いがする──。
「先生は、俺とはじめてセックスした日のことを覚えていますか」
「ああ、覚えているよ」
互いの指先を絡めることが、こんなにも擽ったくて愛おしいのだと、俺は今はじめて知りました。
「羨ましいな」
自然と零れた言葉には、自分自身への嫉妬も少しあったけれど、遠い過去の自分に対する優越感もある。だって俺は、煉獄先生との『はじめて』をもう一度体感できるのだ。
互いの肌に触れ、求めるままに口付けて、ひたりと合わさる身体の線に心臓は力強く脈打って、期待が高まっていく。
先生、痛くてもいいから、たくさん俺を愛して欲しいです。今こうやって貴方を覚えていられる時を、この時間を胸に抱えて生きていきたいから、とびきり強く抱いてほしい。この腹の奥深くに楔を穿って、抜けなくなってしまうくらいの情熱が欲しい。
先生のことが、大好きだから。
百年前の自分が貴方を好きなんじゃない、今の俺が貴方を好きなんだ。これから先の百年も、貴方を好きでいたいから。
「煉獄先生、壊れるまで抱いて」
「いいよ」
でも、と煉獄先生の唇が喉元に優しいキスを贈る。
「でも、俺は君を壊したくない、失いたくない、何度だって君を抱きしめてあげたい」
「先生」
「百年先も恋人であると誓うから、どうか安心してほしい、俺は君を……竈門炭治郎を愛している」
「うん、うん……っ!」
彼のとびっきりの愛の言葉に、俺は涙ながらに頷くことしかできない。幸せが身体中を巡り廻って、言葉にできないほどの幸福に包まれてしまったから。それでも、心は深いところで繋がっているとわかっている。
俺たちは汗ばむ手を何度も繋ぎ合わせながら、愛を囁き合う。
記憶はもう、どこへも飛んで行ってしまわない。確かに俺のそばにある。彼の熱を埋める腹の熱さも、絡み合う視線の甘ったるさも全部、全部を俺は抱きしめながら未来へと行ける。
そう、信じている。
信じているからこそ、現在があるのだ。
********
「こら、こんなところで寝ていたら風邪を引くぞ」
「ん……あれ……」
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。リビングテーブルの上、二人の思い出を集めたアルバムを広げたまま。硬いテーブルに突っ伏していたせいだろう、少し首が痛い。その首筋を優しく撫でてくれる人は、煉獄先生──いや、俺の恋人である煉獄杏寿郎さんだ。彼は手際よくリビングのカーテンを閉めると、キッチンとリビングの電気を点けてくれた。彼はネクタイを緩めつつ、こちらの頭を撫でてくれる。
「先に寝ていてよかったのに、ご飯はもう済ませのか?」
「先生を……杏寿郎さんを待ってました」
杏寿郎さんはシュルリとネクタイを解くと、驚いたように目を丸くしながら椅子の背にネクタイを掛けた。それを取って洗濯にでも持って行こうかと腰を浮かせたが、杏寿郎さんはそれを許してくれなかった。
「だいぶ待たせてしまったな、君はそこで座っていなさい、夕ごはんの支度をしよう」
「俺がします」
「ほら、いい子だから、そこで待っていなさい。一緒にご飯を食べよう」
そう言って、額に甘いキスをされてしまったら、目をとろんとさせながら従うしかない。杏寿郎さんが丸一日首につけていたネクタイを手に巻いて、その匂いに浸りながらキッチンへと目を向ける。カウンター型のキッチンからは、杏寿郎さんの威風堂々とした足取りがよく見える。
彼が帰宅する前に夕ごはんは作っておいたから、後はあたためるだけだ。俺はパン屋で朝が早く、帰りも早いから、自然と俺が食事を作っている。いつもなら、遅く帰ってくる杏寿郎さんより先に食事を済ませて、お風呂に入って、寝てしまっている時間だ。頬杖をつく俺の瞼は、蕩けそうなほどに重い。
それでも彼を待っていたかったのだ。
アルバムを開くことで思い出した、あの懐かしい日の記憶が胸にあるから。
キッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。食器を出す手伝いもすらも制されるほど、俺はだいぶ夢見心地みたいだ。
「炭治郎、膝の上においで。食べさせてあげよう」
「赤ちゃんみたいじゃないですか、俺」
「甘やかしたいんだ、君を」
杏寿郎さんの膝は広くてあたたかい。預けた背中の安心感は世界一だ。ちょうど頬の横に、杏寿郎さんの顔がある。真剣な顔で、スプーンで掬ったシチューに息を吹きかけて冷ましてくれている。それはやがて俺の口に運ばれて、彼もまた同じスプーンでシチューを平らげる。俺が落っこちてしまわないようにと腹に添えられた手の大きさは、いつだって変わらない。
「美味しいな、君の料理は格別だ」
「隠し味は、愛情です」
照れ隠しに放った言葉に応えるみたいに、頬にキスが贈られる。そうやって一口一口、二人だけの甘い時間を味わって、俺たちは幸せな心地で寝室へと向かう。
後片付けは食洗機にお任せだ。
だって今夜は、二人の休日が重なる前夜祭みたいなものだから。
王子様のキスが、眠り姫を目覚めさせるように、杏寿郎さんの熱っぽいキスは俺を微睡みの世界から掬い上げる。
杏寿郎さん、炭治郎。
互いの名を呼びながら、歯磨き粉味のキス。
お風呂は後がいいなと俺が言ったから、俺たちの身体は一日分の汗でいっぱいで、触れた肌は湿っていて。
下着ごと衣服が床に散らばって、俺たちは生まれたままの姿で抱き合う。
キス、キス、キス。
啄むようなかわいいものじゃない、お互いの呼吸を奪い合うような激しいキスの応戦だ。杏寿郎さんの分厚い舌が俺の小さな舌を絡めとって、唾液をごくりと飲み込む音がする。
「ふぁ……っ」
胸のあたりに甘い痺れ。彼の指が、ツンと尖った乳首を摘む。俺はただただ、激しいキスの合間に、興奮している下半身を彼の逞しい腹に押し付けながら、背中に爪を立てるばかりだ。
「欲しがりな子だ、そんなに欲しいのか」
「うん、早く、杏寿郎さんでいっぱいにして」
大きな手は、欲しがるばかりのせっかちな俺を宥めるように、ゆっくりと肌を滑っていく。首筋に吸い付く唇、乳首を転がす指、背中から腰のあたりへと指が降りていって、筋肉質なこの尻に触れる。でも肝心なところには、まだ触れない。唇は敏感な部分を辿るように胸へ、腹へ、そうして期待に打ち震える両脚の付け根へと向かっていく。
「あぅ、あっ、せ、せんせい……っ!」
太ももを、柔らかい杏寿郎さんの髪の毛が擽る。
「はは、まだ俺を先生と呼んでくれるのか」
「だって、先生のことっ、好きだからぁ……んっ、そこじゃない、もっと触ってぇ……っ!」
「はちきれそうだな、かわいいよ」
杏寿郎さんは、性器に触れてくれない。
ギリギリのところを舐めては、びくびく腰を震わせる俺を、下からじっとりと眺めている。獣が、獲物を狙うような鋭い目だ。太ももから膝、つま先すら舐め上げられて、さすがの俺も限界を迎えてしまう。
「やっ、やぁっ、出ちゃう出ちゃ……っ、あぁ……っ!」
「いっぱい出たな」
びゅくびゅくと白い液体を放つ腰を押さえつけながら、杏寿郎さんはぱくりと俺のペニスを咥える。どくどくと脈打つ精を吸い上げつつ、玉袋まで揉んでは二度目の射精を促してくる。
「ひぅっ、だめっ、だめっ、もう出ないっ出ないからっ……っ!」
「頑張れ炭治郎、長男だろう、ほら、頑張れ頑張れ!」
「ひんっ、んんっ、あっ、んん、だめぇ〜っ!」
ヘコヘコと腰が動いて、杏寿郎さんの喉奥めがけて再発射だ。彼は俺のミルクタンクを空にして、やっと求めていた場所に触れる。
「ほら、自分で膝を抱えて、恥ずかしいところを俺に見せて」
「んっ……」
両膝を抱えて、彼のために秘めたる場所を曝け出す。ぺろりと舌なめずりをした杏寿郎さんは、ベッドサイドからローションボトルを取り出すと、たっぷりとその手にローションを垂らして、俺のアナルへと差し入れてくる。
「んあっ……」
二人の愛を紡ぐためとはいえ、いつだってそこはこうして解さないと前に進めない。指先の違和感に、思わず唇を噛み締めて瞼をギュッと閉じる。
この瞬間だけは、いつだって怖いから。
過ぎてしまえば快楽だけが待っているのに。
まるでこの瞬間だけ、快楽へと繋がる記憶を失ったみたいだ。
「炭治郎、俺を見て」
「杏寿郎……さん……」
でも、例え一瞬間の記憶を失ってしまっても、杏寿郎さんだけは俺をずっと見てくれている。日常の些細な出来事をアルバムにまとめ続けてくれた人は、今この瞬間も、これから先も覚え続けてくれる。
俺だって覚えていきたいと願ったんだ。
そうだろう?
「かわいい」
「せんせいも、かわいいです……」
「ほう、どんな風に?」
彼の指が二本、まとめて中に入る。
「んっ、俺の中に入りたくてっ、おちんちんがよだれ……垂らしてるから……っ、あっ、ぐりぐりしないでぇっ……!」
喋りながら、良いところをグニグニと潰すように弄ばれて、空っぽになったはずの俺のペニスも、ふるふると頭を擡げてくる。俺はシーツの上で身悶えながら、杏寿郎さんがのしかかって来る瞬間を待ち侘びる。彼のペニスは黒々としていて、グロテスクな様相でぼたぼたとカウパーを垂らしていた。そこから香る、強い雄の匂い。クラクラする。
「入れるよ」
「うん……っ!」
自分だって我慢ならないほど張り詰めているのに、そうやって丁寧に断りを入れてくれる人が好き。切っ先を埋める時も、俺の様子をきちんと把握してからゆっくりと収めてくれる。そういった些細な優しさが好き。
「好き、杏寿郎さんが、好き」
「ああ……俺も、炭治郎のことが好きだよ」
ぐっと押し入ってくる質量に背が撓る。身体ごと逃げてしまいそうになって、彼の背中にしがみつき、これから訪れる愉悦に息を吐く。
「愛している」
しっとりと耳もとに囁かれた愛の言葉は、きっかけだ。ズンと穿たれた熱棒の衝撃に、目の前にチカチカと閃光が走って、俺はただただ悲鳴のような声を上げるばかり。
最奥を突き、入り口を撫でるようにずろりと引き抜かれたものが、再び中へと突進していく。
顔も身体も、何もかもがぐちゃぐちゃだ。声だって声になっていない、好きだとか愛しているだとか、気の利いた言葉は出てこない。ただただ、杏寿郎さんの背に爪ばかり立てて。
「くっ……、炭治郎っ……受け止めてくれ……っ!」
「せんせい……っ!」
より一層強く抱きしめられ、俺も離れがたくて彼の腰を抱くように両脚で挟み込む。どくどくと、俺の腹の中で彼の命が注ぎ込まれる。たった一度の逢瀬で息も絶え絶えになる俺は、知っている。休日のセックスは何度も何度も、夜が明けるまで続くのだと──。
さざなみのような微睡みの向こう側、明るんだ窓辺をぼんやりとベッドから眺める。
──朝だ。
下着ひとつすら付けていない俺と杏寿郎さん。二人、寄り添うように寝転びながら、朝日の煌めきに目を細める。汗と精液に塗れた身体は、夜明け前にシャワーで流して、柔らかい布団の上に倒れ込んだ。それから程なくして朝日が差し込んで、俺たちは幸せと眠気の間で目を蕩けさせている。
「今日はこのまま、寝てしまおうか」
「そうですね……とっても、眠いです……」
「無理をさせたな」
丸裸の腰を撫でる手は、あたたかい。
「せっかくの休日です、だらだらしましょう」
「うん、後のことは起きてから……考えよう……」
「杏寿郎さん」
「うん?」
「起きたら、俺が作ったさつまいもプディング……食べてくれますか」
「わっしょい! もちろんだよ、君の作るものはいつだって美味しいんだ」
「へへ、ありがとうございます」
「さあ、寝よう……楽しみは起きてから……」
「はい……」
二人きりの寝室に、二人分の穏やかな寝息が響く。空は晴れ、気持ちの良い一日が始まる。
これから先、末永く続くだろう二人の幸福を約束するような、穏やかなはじまり。
百年前からずっと、杏寿郎さんと恋をしていたなんて信じられなかった。そんなおとぎ話のようなことは、どこか遠いところに住む誰かの話みたいだと思っていた。けれど、ふと蘇ってきた百年前の記憶が、それを真実だと教えてくれた。その記憶を飲み込んで、消化して、自身のものにするまでは随分と時間がかかってしまったけれど。
それでもずっと、杏寿郎さんは俺を大切にしてくれていた。俺の記憶が曖昧で、時折消えてしまう時があっても、それでも共に生き続けられる日が来ると信じて。
リビングには、たくさんの写真立てが飾られている。アルバムにも、あふれんばかりの日々が収められている。俺が記憶を留められなかった日も、今日のこの何でもない日も、これからも二人の思い出の写真は増えていくだろう。
二人が眠る寝室から、柔らかな風がリビングへと吹き抜ける。テーブルの上に広げた、俺と杏寿郎さんのアルバムには、いつだって笑顔がいっぱい咲いている。
これからもずっと、思い出は増え続ける。
幸せの日々は、ずっとずっと……これからも──。

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