最終話 百年の恋が冷めても、それでも俺は君に恋をする
少しばかり、昔話をさせてほしい。
小さい頃の俺は、刀のおもちゃを片時も離さない小さな剣士であったらしい。
父が剣術道場を開いていたことも大きく影響していたが、子守唄で眠りにつくような頃から俺は刀を求めていたと聞くから、きっとその頃から断片的にでも前世の記憶を持っていたのだろう。
まだ言葉も上手く発せない小さな男の子は、おもちゃ屋で買ってもらったプラスチック製の刀を振り回しては、強き者になろうとしていた。特に夜になると、布団から飛び起きては刀を片手に家中を走り回っていた。そんな俺を父は笑い飛ばすこともできず、道場にある竹刀に触れさせてもよいものかどうか悩んだらしい。
らしいと言うのは、ほとんどその頃の幼き日々の記憶が曖昧だからだ。前世の記憶が膨大過ぎるあまりに、俺は現実と前世との区別がつかなかった。夜になると刀を持って、目に見えぬ鬼を斬ろうとして暴れ回ってばかりだった。そして、広い家の屋根の上や木々に登っては落っこちて、そうして大怪我をしては入退院を繰り返していた。
「杏寿郎、よく聞きなさい」
何度目かの入院の際、父は真っ直ぐこちらの顔を見つめた。母は教師として働きに出ており、自営業である父だけが俺の入院中の世話をしてくれていた。
「鬼はもういない、鬼の始祖である鬼舞辻無惨は、もうこの世にはいないんだ」
「きぶつじ、むざん……」
「ああそうだ、もう誰も悲しい思いをしなくて良いんだ。だから杏寿郎、今はもう鬼を斬らなくていいんだ」
父の目に、嘘の色はない。子供ながらにそれがわかって、俺はぼろぼろと涙を零してわんわん泣いた。家族を鬼の脅威から無意識に守ろうとした俺を否定せず、その善意を認めてくれ、諭してくれた父のことを、より一層好きになった瞬間だった。
そんなことを思い出しながら、病室のベッドの上で暴れているきかん坊の手首を押さえつける。
「離してください、離してください! 俺は行かなくちゃいけないんだ!」
病棟中に轟くような叫び声に、ナースコールを押さなくとも看護師たちが小走りで駆け寄って来てくれた。
「竈門さん、大丈夫ですよ。落ち着きましょうね」
「ありがとうございます、煉獄さん。後は私たちが処置しますから──」
幾人かの看護師たちは、暴れる彼の腕や足を、手際よくベッドに固定し始める。その中で、泣きながら「あなたたちは誰なんですか、俺は行かなくちゃいけないんです!」と叫ぶ炭治郎の姿は、昔の己を見ているようだった。
自分を取り巻く環境が不明瞭で恐ろしかったあの日々のように。
偶々俺と共に炭治郎の見舞いに来てくれていた父は、しばらく険しい顔をしていたが、呆けている俺に目線を寄越した。
「杏寿郎、少しいいか」
炭治郎を医者や看護師たちに任せる形で、父と俺は病棟内の休憩室の椅子に腰掛けた。病棟で患者が叫ぶことなんて日常茶飯事なのだろう、休憩室に訪れる入院患者も看護師も、先程の大騒動を気にも留めていない様子だった。
当事者である俺と父だけが、神妙な顔つきで目配せをするだけだ。
「竈門君は、記憶が戻ったと言っていたんだな」
「はい、入院したばかりの日に……そう言っていました」
「そうか……あの状態は少しまずいな……鬼殺隊の頃の記憶が戻ってきて、混乱しているんだろう」
「そう、ですね……」
短期間の間に知ってしまった前世の出来事と、頭部に衝撃を受けたことによって思い出してしまった前世の記憶。俺ですらその記憶を整理できるまでに十年近くかかったのだ。
ほんの数日ばかりで、今の炭治郎に整理できるとは思えない。
「ただ記憶が蘇るだけならいいが、前世の力まで戻ると俺ですら手に追えんな……お館様に連絡を入れておこう、放ってはおけん」
「お館様……ご顕在なのですか……」
柱合会議で見上げた優しい面差しの人を思い浮かべる。胸中に懐かしさがこみ上げてくる。
「耀哉様は今生に転生して間もないが、あの頃の聡明な様子はそのままだ。愈史郎殿もいる。何か知恵を貸して下さるだろう。杏寿郎、他にも鬼殺隊の記憶を持つ者は知っているか」
「宇髄と、炭治郎と同期だった隊士の二人なら……」
栗花落カナヲの顔も浮かんだが、己の勝手な悋気に巻き込んでいる最中だ。彼女に事の仔細を上手に話せるようには思えなかった。
「……杏寿郎、竈門君には俺も世話になった。今生でもその恩義は返していきたい、お前だけが背負い込むな、俺たちを頼れ。抱え込むんじゃない、わかったな」
かつて前世の記憶に蝕まれ、ただ泣いて暴れ回るしかなかった子供を抱きしめてくれた父の言葉は、強く優しかった。
俺は目頭を熱くしながら、頷き返した。
事は、数日ほど前に遡る。
炭治郎が、煉獄家の料理教室に通い、俺のために料理を作ってくれた日のことが昨日のように蘇る。
嬉しかった、本当に。
何よりも嬉しかった、彼が俺のために料理を作ってくれのだから。
そのせいだろうか。歓喜に震えた俺は、彼には恋人がいるとわかっていながら、自分の衝動に抗えなかった。
料理教室で習ったという炭治郎の作った料理は、染み入るほどに美味しかったし、好きだなどと言われて舞い上がってしまった。それに、俺を見上げるその愛らしい眼差しに、どうして応えないでいられるだろうか。
「炭治郎……」
彼の柔らかな頬を両手で包み込んで口付ける。それはひどく甘酸っぱくて、己をとてつもなくみっともない大人にさせた。
炭治郎には、明るい未来があるはずなのに。
気が付いたら、彼の手を引いて胸に抱き、彼が何事かを言う前に再び口を塞いでいた。甘くて甘くてたまらない味わいに、腕の中の彼が震えていることにも気が付かないままに。
それから、どれほどそうしていただろう。炭治郎がくったりと俺の肩にもたれ掛かって、しどけなく甘い吐息を漏らして初めて、俺は己の過ちに気が付いた。
「す、すまない……っ! こんなつもりでは……!」
無理矢理に肩を押して引き剥がした炭治郎は、すっかり青い顔をしていた。しばらくそうしてお互いに、信じられないものを見るような目で見つめ合っていたが、根負けしたのは俺のほうだ。さっと彼から目を逸らして、立ち上がった。机上の食器を手早く片付けて、彼にもう帰るように促して、早々に俺は部屋を辞すことにした。留まってはいけない気がした、もう戻れなくなるような気がしたのだ。
だめだ、彼に執着してはいけない。
彼には、未来があるのだから。
翌日の朝は、自責の念に駆られて暗い顔で出勤したものだから、同僚の宇髄に眉を潜められた。宇髄はクラス担任ではないものの、夏期講習の補助に当たっている。いつも以上にラフな格好に身を包んだ彼は、竈門と何かあったのかと、ずばり核心を突いてきた。
「竈門に、お前ん家の料理教室に通うように勧めたのは俺だからさ。あいつの料理、美味くなかったのか?」
「上手い下手は関係ない、彼の料理だったら何でも──」
続けようとした言葉を飲み込んで、代わりに宇髄を睨めつける。
「どうして竈門に料理教室のことを教えた」
「教えるなとは言われてねえな、ただ、あいつが、竈門がお前のことを知りたがっていたから、きっかけを作ってあげただけだ」
「……知りたいなら、俺に直接訊いてくれたら……」
「それ、そのまま竈門に言えよ」
大きくため息を零しながら、宇髄は頭の後ろで両手を組んで大きく伸びをした。
「今でもあいつのことが好きなんだろ、どうして突き放すようなことをしてんだ、あいつの気持ちを考えたことあんのかよ」
「考えるも何も、竈門には恋人が……彼自身の未来があるだろう」
「それな、俺の勘違いだったわ」
「何を言って……」
その時、尻ポケットに捩じ込んでいたスマートフォンが鳴動した。着信番号は実家だ。宇髄も怪訝そうな顔をして画面を覗き込み、目線でこの話題は一旦休戦といこうかという流れになった。
「もしもし」
スマートフォンを耳に当てながら、そっと廊下の窓へと歩み寄る。夏期講習を終えた生徒たちが、やっと解放されたと笑顔いっぱいに帰路についていく様子が見える。そこに炭治郎がいるわけでもないのに、自然と彼の姿を探してしまう自分に苦笑する。なんて未練たらしい男なのか。
『杏寿郎、今から✕✕病院へ向かえますか』
電話口に出たのは、母親だ。病院という言葉に鼓動が跳ねる。家族に何かあったのだろうか。父か、弟の千寿郎のどちらかか、あるいは親戚の誰か。
『先ほど竈門炭治郎さんのお母様から、彼が事故に遭ったと連絡がありました』
聞き慣れない言葉に、一瞬間脳内がフリーズする。
『彼はあなたの学校の生徒さんでもありますし、うちの料理教室の大事な生徒さんです。私は教室がありますから向かえません、杏寿郎、あなたが向かって下さい』
わかりましたと、母の言葉にきちんと応えられたかどうかわからない。俺は、通話が途切れると同時に校舎を飛び出してしまったのだから。
病院まで事故を起こさず車を走らせることができた自分を褒めたい。ただ、急ぎ院内まで向かったが、慌てていたので炭治郎がどこの病棟にいるのかわからない。竈門炭治郎の病棟はどこかと訊ねる俺に、受付の女性は怪訝そうな表情を浮かべるばかりで、教えてはくれないのだ。
親族でもないのだから当たり前だが、かと言って前世の恋人だったからなどと言えば、頭がおかしいのかと思われてしまうだろう。気が動転してしまっているのか、うまい言い回しが思い付かない。一体どうやって彼のいる病室へ向かえばいいのか。
「煉獄先生……?」
熊のように受付で彷徨いている俺に声をかけたのは、私服姿の栗花落カナヲだった。彼女は旅行にでも行くような大きなボストンバッグを持っていた。それが何であるのか、何のために彼女が来ているのか、そのことに気が付いて胸が痛む。
どうして彼女がそんなものを、なんて、決まっている。
彼女は炭治郎の恋人なのだから──。
彼女は受付表にサインをすると、呆けている俺を伴って病棟へと続くエレベーターに乗り込んだ。彼女は俺が炭治郎の見舞いに来たことを察してくれたようだった。
何事かを話すべきだろうかと思ったが、栗花落カナヲはぽつぽつと断片的にしか喋らないので、俺はただ相槌を打つくらいしかできなかった。
「炭治郎は青信号を無視した車に突っ込まれて、自転車ごと転倒したんです。頭を打っているけど、検査では異常はなかったみたいです」
「そうか」
「病院にはおじ様が付き添って、おば様はお店で働いています。私は、おば様に頼まれて着替えを持って来ました」
「そうか……」
「煉獄先生は、どうしてこちらに来られたのですか」
「電話でこの病院に行くように言われて──」
「担任の先生でもないのに、見舞いに来る必要はないと思います」
目的の階にエレベーターが到着し、栗花落カナヲは迷いのない足取りで病棟の廊下を進んで行く。廊下では看護師たちが忙しなく動き回っており、入院患者と思しき人たちが幾人か、点滴スタンドを杖代わりにゆっくりと俺たちのそばを行き過ぎて行った。
「炭治郎に出会えて良かったと、私は思っています。……あなたよりも先に出会えたから、もしかしたら今回は──なんて」
栗花落カナヲは、普段よりも口数が多いように思えた。俺は何と返答して良いかわからず、ただ静かに彼女の後に続くしかない。やがて廊下の突き当りの病室へと辿り着く──四人部屋の入り口には『竈門炭治郎』の名前が走り書きで掲げられていた。
「今度は炭治郎と恋人になれたらいいのに──そんな風に思ったこともあります、でも、炭治郎の中にはいつも貴方がいたから──だから、もういいの」
息を呑む俺になど構わずに、病室のドアをスライドさせて栗花落カナヲは中へと入っていく。「炭治郎」と、彼女が声をかけた相手は「カナヲか、来てくれてありがとう」と応えていた。俺はその先へ向かえなくて、自然と閉まっていくドアの前で立ち止まってしまった。
今、彼女はなんと言ったのか。
恋人になれたらよかったと、言っていなかっただろうか。二人は、とっくに恋人ではなかったのか。
「もしかして、煉獄先生ですか?」
背後から声をかけられ、振り返るとそこには炭治郎によく似た男性がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。炭治郎よりも細身で、柔和な顔立ちをしているが、その目には彼によく似た色の瞳が嵌っている。燃えるような炎を纏う瞳だ。
「私は炭治郎の父の炭十郎です。あなたのことは炭治郎から聞いていますよ、良かったらどうぞ中へ」
そう言われてしまったら、ここで帰るわけにもいかない。炭十郎さんに一礼をして、病室のドアを開ける。
四人部屋の右奥のベッドのあたりから笑い声が聞こえて、胸がつきりと痛む。失礼しますと言って帰ってしまいたい。けれど彼の父親に促されるがままに、そのベッドへと足を向けるしかなかった。
「炭治郎、煉獄先生が来てくれたよ」
炭十郎さんの言葉に、病床の彼がぱあっと顔を輝かせた。
「煉獄先生!」
炭治郎は頭に分厚い包帯を巻き、左腕と左足をギプスで固定された状態で寝転がっていた。あまりの惨状に、よろめきながら駆け寄った俺に、彼はひだまりのように微笑みを浮かべた。
「来てくれて嬉しいです、ああ、すみません気が利かなくて……煉獄先生、良かったら座って下さい」
「いや、俺は……」
「まあまあ、せっかくお越しくださったのですから、ゆっくりしていってください」
炭十郎さんにも椅子を勧められて、渋々座ると炭治郎と目線が交わった。痛ましい姿ではあるが、元気そうだ。
「栗花落くん、俺たちは下のカフェにでも行こうか。荷物を持ってきてくれた御礼がしたいんだ」
「はい」
そう言って部屋を辞そうとする二人に、俺は思わず腰を浮かせた。けれど炭十郎さんは「先生、しばらく炭治郎の話し相手になってあげてください。数日入院することになったので、暇を持て余しているんですよ。夕食まで随分と時間もありますし……炭治郎を、どうぞよろしくお願いします」と、逆に頭を下げられてしまった。栗花落カナヲもまたそれに倣うように頭を下げ、二人は病室を後にしてしまった。
キシリと椅子を軋ませて座り直し、炭治郎へと向き直る。彼の頬にはいくつか擦り傷も見えるが、本人はけろりとしていた。いつもの耳飾りは、ベッドサイドの戸棚に丁寧に置かれていた。その耳飾りが無いせいだろう、余計に彼は幼く見える。
「怪我の具合は……どう、だろうか……」
会話の糸口を探しつつ、揉むように両手を組んだ。「痛いですよ」と、炭治郎は静かに応えた。
「考え事をしながら自転車なんて乗っちゃだめですね、もう少しで車の下敷きになるところでした」
てへ、と悪戯を詫びるような軽さで笑う彼に、「笑い事じゃないだろう!」と、俺は声を荒げたが、ここが病室だと思い返して声を抑えた。
「一歩間違えば、君はどうなっていたか……」
「……俺がどうにかなっていたら、煉獄先生は泣いてくれましたか」
炭治郎は、眉尻を下げる。
「心配をかけてすみません、先生にそんな顔をさせたくなかった……でも安心してください、骨は折れてしまいましたが、こうして先生とお話しできますから、どうか……泣かないでください」
「泣いてなど……」
確かめるように触れた自身の目もとは、意外にも少し濡れていた。
「……先生、手を握ってくれませんか」
炭治郎は、自由に動く右手を差し出してきた。白くてきれいな手だ、百年前にはあった剣胼胝など、もうどこにもない、平和を謳歌している手だ。
けれど君の手を握るべきは、自分ではない。
彼と共に未来を歩くべきなのは──自分ではないのだ。
「……そんな資格は俺にはない」
「……百年の恋も冷めてしまいましたか?」
息を呑む俺に、炭治郎は続ける。
「忘れてしまったんですか『杏寿郎さん』……あなたが言ったんですよ『自分が死んだら俺のことは忘れて幸せになってほしい』と」
彼の目の中には、きっと目を潤ませている俺が映っているに違いない。聞き間違いだろうか、こんな奇跡、起こるはずがない。それなのに炭治郎は、懐かしい微笑みを浮かべる。
彼の目にもまた、涙が滲んでいた。
「でもね、……例え、例え百年の恋が冷めても、俺はきっとあなたに恋をしてしまうんです。何度だって……。そういう運命なんですよ、俺たち、きっと」
「炭治郎……っ!」
椅子から転げ落ちそうになりながら、彼の膝もとに縋りつく。歓喜に胸が湧く。
「思い出してくれたのか……!」
「思い出さないと、……俺は……あなたの恋人になれませんか」
けれど彼の声は、冷ややかだ。今にも泣き出しそうな顔で、俺を見下ろしている。
「全てを思い出せたわけではないんです、記憶は断片的で、何もかもをわかっているわけでもないけれど……それでも俺は、煉獄先生のことが好きです……」
ほとりと、彼の頬に涙が滑り落ちる。
「百年前の俺じゃない、今を生きる俺が煉獄先生を好きなんです。それでもいけませんか、こんな俺でもあなたを好きになってはいけませんか」
「違う……そういう、わけでは……」
「だったら……だったらこの手を取ってください、……俺はあなたと共にこの世を生きたい」
震えながら差し出されたその手を、掴もうにも掴めず、俺はそっと目線を床に落としていく。
駄目だ、俺は君の手を取れない。こんな醜い感情に囚われている男が、君の手を取っていいわけがない。
「杏寿郎さん……」
差し伸ばされた手が、力なく下げられる。涙が落ちるような音がしても、顔を上げることもできない。彼の顔を見てしまえば、みっともなく彼に縋ってしまいそうだ。
「すまない……」
「どうして……素直になってくれないんですか……っ、俺は杏寿郎さんのことをずっと……っ!」
悲鳴のような叫びに俺は耳を塞いでしまった。そうして彼の気持ちを無視して、逃げるように病室を出てしまったせいなのだろう。
彼は、炭治郎は、それから前世の記憶に脳内を侵食され、病室で暴れては叫び声を上げるようになってしまったのだ──。
何度も彼を見舞いに訪れるのは、彼を拒絶してしまったせいではないかと後悔しているからだ。
あの手を握ってあげていればよかったのか。よく、わからない……。
忘れていたはずの腹の痛みが、増すようだった。
病室での炭治郎の様子に顔を顰めた父は、帰路に着く道すがら、とある屋敷に車を寄せた。
都内からはずいぶん離れた郊外に建つ広大な屋敷を見上げ、俺は深く吐息を零す。父の話しによれば、かつての産屋敷家は焼け落ちてしまったという。その話しは以前、前世でも聞いていた。鬼舞辻無惨との戦いを予見していたお館様が、屋敷ごと自らの命と引き換えに爆破させたのだと聞いた時は、当時での自分でも震え上がったものだ。
そんな屋敷の跡地に建てられたこの屋敷には、お館様のご子息である輝利哉様が少し前まで子や孫らと共に暮らしていたようだ。
父は、輝利哉様と成人した頃から会っていたらしい。彼はハンドルを握りながら、ぽつぽつと昔の話しをしてくれた。
「輝利哉様は、最期まで俺たちを──前世の記憶を持って生まれてしまった俺たちを、出来るだけ傷付かないようにと、出来得る限りのことをしてくれたのだ」
「他にも……」
「鬼殺隊も非公認とはいえ、それなりの組織だったからな。隊士だった者、隠だった者、また鬼殺隊に助けられた者たち。皆、大なり小なり、悲痛な記憶を持って生まれてくることがある……。そういう者たちが、少しずつ数を増やしていったから、その対策を輝利哉様は、講じていらっしゃったのだ」
サイドブレーキを引きながら、父は柔らかく微笑んでみせた。
「お前の周りにも、前世の記憶を持つ人間が集まってきただろう、宇髄君や、竈門君がその例だ。……要らぬ心配をかけたくなかったんだ、黙っていてすまないな」
父の言葉に、俺は静かに頷くことしかできなかった。
急な訪問のため、先方への連絡を失念していたが、その屋敷の主人はまるで俺たちが来ることを予見していたかのように、あたたかく出迎えてくれた。
屋敷の奥の座敷に通されて、俺は目を瞠った。前世で尊敬の念で見上げていたあのお館様が──耀哉様が、当時よりもずっと幼い姿で座っていたのだ。もちろん、その顔に当時のような痛ましい顔の痕はない。健康そのものの少年は、「久しぶりだね、杏寿郎」と笑った。
「驚かせてしまってすまないね、鬼殺隊のこどもたちのことは、輝利哉から聞いていたよ。つらい思いをさせてしまったようだね」
放たれる言葉の優しさは、生まれ変わりだと信じるに足るものだった。思わず頭を垂れそうになった俺を、彼は「私はもうただの子供だからね」と制した。
「杏寿郎、君はもう少し自分の気持ちに素直になったほうがいい。君は、君たちは深い縁で繋がれた仲なのだから」
「お館様……」
「炭治郎も今はつらい時期だろう、不安も大きいはずだから、君が炭治郎を支えてあげてほしい」
「しかし、俺では……」
「杏寿郎だからこそ、炭治郎の支えになると私は思っているよ」
不思議だった。彼にそう言われると、本当にそんな気さえしてくるのだ。炭治郎と、胸中で彼の名を呼ぶ。応えてくれる声が、どこからか聞こえてくるような気がした。
お館様の采配により、産屋敷家に縁のある医者が炭治郎の担当に代わったのだが、その人物に俺は目を瞠った。
記憶が混同してベッドの上で暴れる炭治郎に動じることなく、鎮静剤の点滴を付け替える女医の涼やかな横顔には見覚えがある。
「大丈夫ですよ、炭治郎くん。ちょっと眠くなるだけですからね」
「胡蝶……」
藤紫色の瞳が俺を捉え、柔らかく細められる。白衣を身に着け、紫がかった黒髪を頭頂部でひとまとめにしている姿は、前世の胡蝶しのぶと瓜ふたつだ。いや、胡蝶しのぶそのものだ。医者という職業柄、蝶の髪飾りをつけていないだけで、以前の姿と変わったところはない。
「お久しぶりです、煉獄さん」
「君も記憶が……」
「ええ……お館様様から、煉獄さんや先代の炎柱のことは伺っていました。まさか炭治郎くんにまで記憶が戻ってしまうなんて……」
鎮静剤が効いてきたのか、次第に静かになってきた炭治郎に、二人揃って目を向ける。彼はうつらうつらと船を漕ぐように、ゆっくりとその目を閉じていった。
「炭治郎くんにだけは、前世を知らない人になって欲しかったんですけどね」
「……どういう意味だ」
「あなたは覚えていないんですか、鬼舞辻無惨との戦いで、彼が一度鬼になってしまったことを」
「……初耳だ」
鬼舞辻無惨との戦いが激しかったことは、記憶の中にある。しかし己は戦える身体ではなく、まして宇髄や父のように輝利哉様の護衛にも、人に戻ろうとしている炭治郎の妹、禰豆子のそばにも向かえなかった。ただただ、屋敷で千寿郎と共に炭治郎たちの無事を祈ることしかできなかった。
あの決戦の後、炭治郎は多くを語らなかった。
語らなかったのは、自身が鬼になったせいなのか。
「私もあの戦いで炭治郎くんより先に死んでしまった身ですから、今の世になって、お館様と愈史郎さんから伝え聞いたことですけれど……炭治郎くんは、鬼舞辻の血を全て与えられて鬼になったそうですよ。日の光の下でも死なない鬼であったとか……」
胡蝶は一旦そこで区切ると、すっかり眠ってしまった炭治郎の布団をかけ直した。
「当時の記憶が蘇ったら、彼はどうなってしまうのか。恐ろしくもあり、また、心配でもあるんです。どうせならこのまま、前世の記憶なんて無かったことにしてあげたいくらいですよ。彼には酷です」
「無かった……ことに……」
「何か不都合がありますか、煉獄さん」
胡蝶の問いかけに目を伏せる。彼と過ごした日々のことは、今でも記憶に残っている。楽しいことばかりではなかった、けれど、それでもお互いに愛し合ってきたあの一日一日を、忘れて欲しくはない。
けれどそれが枷となるなら──。
堂々巡りの思考が頭を駈け巡る。
しばらく答えに窮した俺は、胡蝶の問いにすぐ返答しなかった。いや、できなかったと言うべきか。
静まり返った病室に、炭治郎の穏やかな寝息だけが微かに響いている。
胡蝶の考えは理にかなっている。確かに、彼の心を守るためには、過去を封じるという選択もあるのかもしれない。
だが──それでも、と思う。
「不都合ではない。いや、少なくとも俺の個人的な願望としては、彼に平穏を与えてやりたいとは思う。しかし……」
胡蝶がこちらを見たまま、わずかに首を傾げる。
「しかし?」
病室で思いを伝えてくれた彼の顔付きは、大人びていた。真剣な、心の奥底からの告白を向けてくれた彼なのだ。
「彼は、弱い人間ではない。今はまだ幼いが、芯はあの頃と変わらない……」
俺に物怖じせず、何度も思いを告げてくれた彼だからこそ。
「前世でも、誰よりも人の痛みを背負って、苦しみながらも前に進もうとしていた。鬼殺隊の任務は残酷なことばかりだ、報われることも稀だっただろう。……戦いで多くの者を亡くしたのだから、それらを全て思い出すことは、苦しいだけかもしれない」
自分がかつて、おもちゃの刀を振り回しながら、居るはずのない鬼を倒そうと奮起していた頃に思いを馳せる。
あの時、出口の見えない暗闇から救い出してくれた父のことを。
「しかし、彼は前世のことを思い出したのなら、それらを受け止められるはずだ」
それがどれほど重い記憶でも、彼は正面から受け止める強さを持っている。彼のそばで共に戦うことはできなかったが、何度厳しい戦いに身を置いても、決して挫けなかった彼を知っている。だからこそ、炭治郎の前世の記憶を奪うことが、果たして本当に彼のためになるのか疑問なのだ。
「俺が炭治郎だったら……過去を無理やり封じられるより、隣に立ってくれる人がいる方が救われると思う」
同じように前世の記憶を持つ父が、傍に居てくれたように。
もし俺が、彼のそばに居ても許されるのなら。
ああ、俺は本当に馬鹿者だ。
どうして今になって、彼の気持ちに応えようとしているのだ。俺の目を見て、手を伸ばしてくれたあの日に、きちんと応えてあげればよかったのに。
胡蝶は少しの間黙ったまま、何かを思案しているようだった。そしてやがて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「本当に、昔と変わらないんですね。あなたって人は」
「そうか?」
「ええ。いつだって正しさと優しさが、心の中に同居している。だから今生でも、そんな煉獄さんに炭治郎くんは惹かれてしまうのでしょう」
少し照れくさくて俯きかけた顔を、バッと上げる。頬が熱い。
「待て胡蝶、どうしてそれを」
「あら、私はただの感想を述べただけですよ。それとも、まだ十六歳ばかりの子供に恋でもしているんですか、煉獄さんは」
胡蝶は試すような目で俺を見上げる。前世でも時々人を見透かすような言動はあったが、図星を突かれた心地だ。はあ、と俺は肩で大きく息をして「降参だ」と両手を挙げた。
「胡蝶の言う通りだ、俺は……今生でも炭治郎に恋をしている」
口に出してしまえば、至極簡単なことだった。
最初から、こうして素直でいればよかったのだ。
「そうですか……炭治郎くんはどう見ても未成年ですけれど、手は出していませんよね?」
にっこりと微笑みを浮かべる胡蝶の目は、もちろん笑ってなどいない。末恐ろしさすら感じ、俺は身震いしながら顔の前で両手を振った。
「俺はまだ……何も、彼の手すら取れていない……」
目を伏せてしまった俺を、胡蝶はどう感じただろうか。彼女は、ふっと息を吐いた。
「まあ、恋愛は自由ですよ。随分と歳の離れたカップルですけれど……。煉獄さん、炭治郎くんが嫌がるようなことはしないで下さいね」
「わかっている……」
胡蝶の詮索から逃れるように炭治郎の寝顔を見下ろした。己の中で少しずつ決意が固まっていく。
やっとこの気持ちに気付けたのだ、やっと君の手を取りたいと思えたのだ。
「……胡蝶。今後、彼の記憶がさらに混濁するようなら、薬ではなく、俺に話しをさせてくれないか。炭治郎のことは俺が支えたい」
「……わかりました。まあ、駄目と言っても聞かないんでしょうけどね」
胡蝶は、聞き分けのない子供のような俺に、大きくため息を零す。その顔には、微笑みすら浮かんでいる。
「煉獄さん、炭治郎くんのことも心配ですが、貴方の腹痛の原因も同時に探っていきますので、覚悟してくださいね」
「なに……」
唐突な申し出に、二の句が告げない。自然と触れた腹へと、胡蝶の目線が刺さる。
「お館様から、伺っていますよ。夜になると痛むのだとか……もう何年も病院へ通っていて、今だ完治していないことも。どうしてお館様を頼らなかったのですか、とんでもない大馬鹿者ですよ、煉獄さんは」
ああ、あの方には隠し事などできないようだ。
「……わかった……、胡蝶……頼んだ」
「ええ、任せて下さい」
滾々と眠る炭治郎の額には、汗が滲んでいる。きっと、夢の中でも過去と今を行き来しているのだろう。胡蝶に見守られていると知りながらも、ベッドの横に跪いて彼の手を取る。
その甲に口付けながら、この心は以前よりも強く、激しく燃え上がり始めた。
「目覚めなくちゃ、これは夢なんだ、これは夢なんだ!」
炭治郎はそう叫んでは、今だギプスで固定されている腕を動かそうとするものだから、それを止めるのは随分と骨が折れる思いだった。念の為拘束具で腕の動きを封じさせてもらっているけれど、存外に彼の腕力は強く、ベルトが引き千切られそうなほどだった。
「炭治郎、俺の声が聴こえるか!」
その度に俺は、懸命に声をかけた。暴れる彼の手を押さえ、彼の目を真っ直ぐに見つめて語りかける。
「夢ではない、これは現実なんだ、炭治郎!」
炭治郎と声の限り叫んでも、錯乱している彼にこの声は届かない。見舞いに訪れた炭治郎の家族が息を呑む中、俺は自分に出来ることを精一杯彼に伝えた。
君が好きだと、君を愛しているから、帰っておいでと。
それでも、炭治郎の意識はどこに行ってしまったのだろう、その日は彼に鎮静剤を打つまで、俺の声は欠片も届かなかった。
「兄は、どうなってしまったのでしょうか……」
骨折しただけの炭治郎が錯乱する様子を目の当たりにして、彼の家族が平静でいられるはずはない。
その日見舞いに訪れた炭治郎の妹──禰豆子は、真っ青な顔をして病室に訪れた胡蝶に問いかけていた。
「頭部を強く打ったことにより、記憶が混濁しているだけですよ。大丈夫です、私たちがサポートしていきますので、安心してください。それに、……炭治郎くんの将来の恋人もいらっしゃいますし」
帰り支度を始めていた俺は、急に話しを振られて目を瞬かせた。禰豆子は言葉を失って、俺と、胡蝶とを交互に見遣ってから「恋人って……」と、信じられないものを見るような目で、俺を見上げた。
その視線の意味も痛いほどにわかる。どう考えたって炭治郎と俺とでは釣り合う年齢ではないし、そもそも男同士だ。声にもならないだろう。
「今はまだ返事を返せていないが俺は──」
「もしかして、お兄ちゃんの運命の人ですか!」
言い訳めいたことを口にしようとした俺に、禰豆子は前のめりになって口を挟んできた。その顔には、興奮の色が見て取れた。
「お兄ちゃん、ずっと昔から料理やお菓子作りを頑張ってきたんです! 誰かのために作っているようで、でも私が聞いてもこたえてくれなくて、もしかして、あなたがお兄ちゃんの運命の人なんじゃないかって……」
一気にまくし立てた彼女は、一旦呼吸を整えてから笑みを深くした。
「最初は、うちによく来てくれたカナヲさんがその人なのかなって思っていたけど、……全然違うみたいだったから……」
栗花落カナヲの名に眉を顰めるけれど、目の前の禰豆子の表情は安堵に満ちていた。病床では自身の兄が原因不明の錯乱状態を起こし、鎮静剤で滾々と眠っているというのに。以前から彼女には、何か確信めいたものがあったのだろうか。
「あの、私は竈門炭治郎の妹の禰豆子です、お兄ちゃんのことをどうかよろしくお願いします……!」
「ああ、任せてくれ」
自然とそう言ってのけてしまった俺に、俺自身が一番驚いている。
決意が、俺を後押ししているのだ。
炭治郎の想いに、今度こそ応えてみせるという決意を持ったからこそ──。
炭治郎との対話と共に急がれたのは、度々俺を襲う腹部の痛みの解消だ。
今まで通ってきた病院で、レントゲンやMRI、エコーといった基本的な検査は行ってきた。しかし、どこにも異常はなく、精神的な疾患ではないかと多くの医者がそう診断を下してきた。その度に精神薬と共に痛み止めも処方されたが、この疾痛は治まるどころか、近頃はその痛みも増してきている。死ぬまでこの痛みと共に生きていかねばならぬだろうと、覚悟さえしていた。
「煉獄さん、鬼の肉片があなたのお腹の中にあります」
しかし、胡蝶の見立ては違った。
彼女が行った触診や検査によって、その原因は容易に特定できた。
彼女は立場上は脳神経外科を担当する若い医者ではあるが、鬼殺隊時代の血鬼術による症例を受け継いだ一人だ。鬼殺隊は百年以上前に解体されたが、鬼によって齎された脅威を、当時の隠や隊士たちの子孫によって現在まで残してきたのだと、胡蝶は顔を曇らせながら説明してくれた。
「鬼の始祖である鬼舞辻無惨はもういないのですから、鬼による伝承も全て焼き払ってしまってよかったのに、カナヲはそうしなかったみたいですね」
唐突に話された名前、それは胡蝶しのぶの継子である栗花落カナヲのことだろう。今の彼女ではない、前世の栗花落カナヲのことだ。
診察室の椅子に呆然と座ったまま、胡蝶の言葉をじっと待つ。
「もしかしたら、鬼舞辻の死後も後遺症に苦しんでいた隊士がいたのかもしれませんね。……そう言えば煉獄さんは、上弦の参との戦いの後も苦しんでいましたね……鬼舞辻との戦いの後も、それは変わりませんでしたか」
「……今、思えば……」
炭治郎と共に山奥へと隠居したのも、ひとえにその後遺症に悩まされたからではなかったか。腹部に尋常ではない穴が空いて、悉く臓器が潰れてしまって余命幾ばくかだったこともあるけれど。
「そうだな……俺は、よく炭治郎に心配されてばかりの男だった……」
「これは推測ですが、当時も鬼の残滓が体内に残ったままだったのでしょう。そしてこちらへ転生した際に、その残滓も共に転生してしまった……まるでファンタジーのような展開ではありますが、この肉片の存在を考えれば自然なことかもしれませんね」
肉片の持ち主も同じように転生しているのかもしれませんが、と付け加えた胡蝶の顔に笑みはない。
上弦の参、確か猗窩座とか言ったか……あの鬼も俺や炭治郎のように転生しているのだろうか。しかし鬼はもういないのだから、彼は今人間として生きているのだろうか。
「まあ、私も煉獄さんも……誰一人としてその鬼の転生後の姿などわかりませんから、今は鬼の現状については無視しておきましょう。とにかく、事は急を要します」
「無論、承知の上だ」
「数日以内に術前の検査を行い、腹部から鬼の肉片を除去します。その間の炭治郎くんのことは、こちらで面倒をみますので、安心して下さい」
不安が無いと言えば嘘になる。俺が手術を受けている間に、炭治郎に何かあったらと気が気ではない。
けれど、目の前で真っ直ぐにこちらを見据える胡蝶の顔は信頼に足るものだった。だから姿勢を正して、彼女に向かって頭を下げた。
「よろしく頼む」
手術は、滞りなく行われた。
百年前、胡蝶のもとで働いていた隊士たちの子孫、またその生まれ変わりである者が手術に関わってくれた。それも全てお館様の先見の明であると言うのだから、驚きだ。
父が鬼殺隊の記憶を思い出した当時は、ほとんどその記憶を持つ者はいなかったと話していた。
「竈門君が、鬼舞辻を倒した竈門君の存在が、転生前の記憶を持つ人間を呼び覚ましているのかもしれんな」
手術前、父はそう言って顔を顰めていた。鬼の脅威までもが再び訪れるのではないかという一抹の不安が過ぎったが、父は「心配するな」と、いい歳をした息子の頭を撫でた。
「夜に刀を持たずに出歩ける日々は、きっとこれからもずっと続くだろう。──それに、竈門君がいるんだ。鬼舞辻だって容易に生まれ変われないだろうからな」
父の笑顔に、俺は安堵の吐息を漏らして手術へと向かった。俺は前世よりも随分と弱くなった、不安の強い男になってしまった。それでも、そんな俺を父も、誰だって笑ったりはしない。誰だって、貶したりしない。
炭治郎だって、そんな素振りはみせなかった。きっと今でも、彼が前世の記憶を全て取り戻したって、俺を──。
炭治郎……。
夢を見た。
懐かしい夢を見た。
俺は、腕の中にあたたかな人を抱いていた。赤茶色の旋毛をじっと見つめて、俺は安堵の吐息を漏らしてその人を抱く腕に力をこめる。
じんわりとあたたまっていく身体が、心が、何よりも心地よくてたまらなかった。
「甘えん坊ですね」
腕の中で、その人がくつくつと笑った。
「起きていたのか」
はいと言って、彼はむずがる子供のように俺の胸に頬ずりをした。君のほうがよっぽど、などと口にしそうになって、そんな自分に苦笑した。
お互い様なんだ。
外は暗く、強い風が戸をカタカタと揺らしている。ぞろりと這うように寄ってくる夜の気配に、肩が強張っていく。片目だけの視界で刀を探そうとして、腕の中の彼が「もう鬼はいないんですよ」と、聞き分けのない子供を諭した。しばらく、足掻くように指先で畳を引っ掻いてから、彼の言う通りだったとそっと手を引っ込めた。
「こうやって夜に眠るのは、怖いですか」
「……君は何でもお見通しだな」
「あなたの伴侶ですから」
「じゃあ、俺が今考えていることはわかるか」
「……助平ですね」
くるりと彼を敷布の上に転がして、布団を背中に被ったまま覆い被さってみる。炎のような痣を額に浮かべた彼の、今でも変わらぬ強い眼差しに喉が鳴る。宵闇でも、彼の何もかもを余すことなく見つめられる自分の目に、今になって感謝している。
俺を飲み込む彼の秘めたる場所すら、くっきりと見えるのだから。
誰も、何者であっても、俺たちの日々を引き裂くことなんてできないのだ。貧しさの中に身を置いても、こうしてお互いを支え合い、互いの呼吸を合わせて生きていけるのだと、俺たちは信じて疑わなかった。
いや、信じたかったのかもしれない。
「炭治郎」
肌を重ねた夜は、身も心も無防備になる。
「もし、俺が死んでしまったら、その時は──」
静かに、涙が彼の頬へと零れ落ちていく。避けられない未来を、夢現でもいい、無かったことにできるのなら、どれほど幸せだっただろうか。人は老いて、いずれ死ぬるのだから、こんなにも怯えて生きなくてもいいはずなのに。君がこれから流していく涙に全て栓をして、君の顔には笑みだけを灯していたい。
傲慢だろうか。それでも俺は、君に笑っていてほしいと願った。
俺はどうなってしまってもいいから。君だけは。
願いをこめる夢は、膨張と収縮を繰り返しながら霧散する。それは過ぎてしまえば、本当の記憶だったのかどうかすらあやふやではあったけれど。それでも、腕の中に抱いた人の笑顔は、本物だったのだと頭の中で叫ぶ俺がいるんだ──。
術後の経過は良く、鬼の残滓はすべて取り除かれた。
鬼の肉片は微細なものばかりだったが、日光に当てると灰のように崩れ落ち、跡形もなく消え去った。腹にはもう、おぞましい痛みは訪れることはない──もう二度と。
「おつかれ様です、煉獄さん」
「ありがとう胡蝶!」
病床の上で放つにしては大き過ぎる声に、胡蝶は笑顔を浮かべたまま「声が大きいですよ」と俺を諫めた。
「経過は順調ですよ、合併症もありませんし明日にでも退院できます」
「さすが現代医療だな」
「そうですね、それと朗報をお届けに来ましたよ」
胡蝶の心からの笑みに、俺は彼女が何と言わんとするかわかって、ベッドから飛び降りて病室を飛び出してしまった。
「まだ安静にしていて欲しいんですけどね!」
胡蝶の叫ぶような声に立ち止まってなどいられない。入院着を着たまま、大股で病棟の廊下を駆け抜けて彼のもとに向かう。そう、同じ病院で治療を受けている彼のもとへと──。
「炭治郎!」
病室の戸をけたたましく開くと、通りがかった看護師に「お静かになさって下さい」と窘められた。慌てて頭を下げて謝るが、その足はもう炭治郎の病床へと迷いなく向かっていく。ちょうど同室の患者が出払っているようで、勝手知ったる部屋だからと、彼のベッドサイドのカーテンを開いた。
「れ、煉獄先生……!」
「炭治郎……」
彼は病床に腰掛けたまま、目を丸くして俺を見上げる。記憶の混濁により暴れていたせいで傷の治りが遅いのだろう、彼はまだ腕と足にギプスを嵌めたままだ。
けれどもうその顔には、混乱する様子はない。落ち着いた顔付きと、仄かに赤く染まる頬、見上げるその赤い瞳にはしっかりと俺が映ってくれている。
俺は、あの日のように彼のそばに跪いた。
彼のありったけの想いを拒絶してしまった、あの日と同じように。
「……炭治郎、謝らせてほしい、君の幸せを願うあまり、君の気持ちを無碍にしてしまったことを……」
君には恋人がいるのだと勝手な思い込みをしてきた。そして今生での年齢差や世間体を気にして、君には未来があるべきだと思って、身を引いてしまった。未来は明るくあるべきだと。けれど、俺以外の誰かと共に歩く君を想像するだけで、胸が張り裂けそうなほどに痛むのだ。
「本当は、本当はずっと君のことが……!」
ああ、俺は大馬鹿者だ。君は前世のことを知らないうちから、俺のことを好いてくれていたのに。その言葉に応えることもしないで、君を突き放してばかりで。
見向きもしないで。
跪いたままの姿勢で、震える手で、彼の手をそっと手に取った。もう迷いたくない、君の心を手放したくない。己のこの心も、手放してはいけないのだ。
「好きなんだ……君が、……前世の恋人だからとか、そういうものじゃなくて、君自身が、今の君自身が。……好きなんだ……好きなんだ、炭治郎、君が好きだ」
「急に、何を言い出すかと思えば……」
繋いだ手は、柔らかく握り返された。
二人、言葉もなく涙を流し合った。百年という時を経て、漸く繋ぐことのできたこの手を、今はただ、離したくなかった。
炭治郎が入院中の間、色々な人間が彼を見舞いに訪れた。散々心配をかけさせやがってと小言を告げに来た宇髄、連絡を受けて半べそをかきながら駆け付けた黄色い少年と、今は素顔で暮らしている猪頭少年。彼らは炭治郎の無事に安堵の吐息を漏らし、また片時も彼から離れようとしない俺の様子に呆れているようだった。
俺は暇さえあれば炭治郎の病室に訪れては、手足が不自由な彼に甲斐甲斐しく尽くした。
自身の腹の傷の具合が良いことも後押ししたのだろう。足取りが軽やかだった。
「ったく、もっと早くからそうしてればよかったのによ」
切り分けたりんごの一欠片を、炭治郎の口もとに差し入れている俺に、宇髄は肩を竦めた。黄色い少年は「うわー! 破廉恥すぎるでしょ!」と、思春期の少年らしく騒いでは、宇髄にぽかんと頭を殴られている。そんな騒がしい中で、猪頭少年は険しい顔をして、ズカズカと俺たちに歩み寄ってきた。
「おい、ギョロギョロ目ん玉、今度紋次郎を泣かせたら承知しねえからな」
「ちょっとぉ、伊之助! 何をガン飛ばしちゃってんのよぉ! 怖いからやめてあげてよぉ!」
「てめえら、ここは病院なんだから静かにしやがれ!」
やいのやいのと騒ぐ彼らに、俺と炭治郎はお互いに顔を見合わせて笑い合った。紆余曲折、互いを思い合うからこそすれ違ってきた俺たちは、これから同じ道を歩んでいくのだ。
あまりの騒がしさに看護師さんからお小言をもらっている彼らに目を細めつつ、俺たちはこっそりと手を繋ぎ合った。きっともう、この手が解かれる日はないだろうと信じて。
例え、百年の恋が冷めてしまっても、俺たちはお互いに恋をしてしまう運命だろうから。

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