6.この気持ちの名前を知る
「竈門、お前……料理が上手くなりたいと思ったことはないか?」
「急に何を言い出すんですか、そりゃあ……上手になれたら、とは思いますけど……」
そう返しながら、俺は何をしに美術室にやって来たのだろうかと小首を傾げた。
先日、善逸から前世についての詳細を教えられ、衝撃を受けたのは記憶に新しい。そしてその共通する前世の記憶を持つ人が、煉獄先生以外にもいるのだと彼は言っていた。その人こそが美術教師の宇髄先生なのだが、彼を訪ねて職員室に向かったところ、美術室へと連れ出され、そして冒頭の言葉を投げかけられたのである。
てっきり、前世について懐かしかったことや、もしかしたら煉獄先生のことが聞けるのではと期待していた俺は、拍子抜けした。
「じゃあ決まりだな、お前、煉獄の家で料理を習え」
「え、ちょっと待ってください、どういうことですか!」
宇髄先生は、美術室の椅子にどっかりと座りつつ、ビシッと人差し指で俺を指してきた。先生、人を指差してはいけませんと、習わなかったんですか?
「煉獄ん家、時々料理教室を開いてんだよ。講師である煉獄の母親が、生徒さんたちに料理を教えていてな、最近は菓子作りにも励んでいるらしい。てなわけで、ちょいと地味だが夏休みもあるし、煉獄の母親に料理を習ってこい」
「どうしてそうなるんですか」
「ばっかお前、外堀埋めないで単独で煉獄に突っ込んでいっても無駄弾を射つだけだろーが。まず煉獄の母親の心を掴み、煉獄の心をも掴むんだ。ほら、胃袋を掴めって恋愛の極意にそう書いてあるだろ」
時代錯誤のとんでもない計画である。引き攣った笑みを浮かべる俺に、宇髄先生は名案だろうとばかりにキラキラのウインクを寄越してくる。
「……そう……上手くいきますかね……」
「上手くいくかどうかは、お前次第だな」
「俺次第って……あの、宇髄先生……俺は善逸からあなたのことを聞いたから来ただけで……」
「そもそも、煉獄の様子がおかしくなった原因は俺にもあるからな……」
憶測で物を言うもんじゃねえな、と付け加える宇髄先生から、僅かに後悔のような匂いがしたので、それ以上は突っ込む気になれなかった。
それに、これは案外といいチャンスなのかもしれないと思えたのだ。
夏休み、ほとんど煉獄先生に会えないまま過ごせば、彼との距離もどんどん開いてしまう。僅かでも、彼との接点が得られるのなら、藁をも縋る思いで挑むしかない。
俺は、宇髄先生からの提案を飲むことにした──。
「しばらく料理教室に通うから、いつもの試食はできなくなるんだ、ごめんなカナヲ」
帰り道、同じ方角に向かうカナヲに断りを入れる。カナヲは、変わらぬ表情を浮かべて小さく頷き返してくれた。
彼女にお菓子の試食をお願いしてから、もうどれだけの年月が過ぎたのだろう。こうやって試食を断るのは、家族旅行やカナヲの都合が悪くなった時だけだから、ほんの少し寂しさはある。
もともとお菓子に興味があったわけでもない。パン屋の息子だから、パン作りには早くから挑戦してきた。けれど、自分の手ではパン生地の発酵が上手くいかなかった。ただの気のせい、幼いせいだと見ないふりをしてきて、その中で、トースターで焼いたクッキーだけは上手くできたから、お菓子なら作れるんじゃないかと思ったのだ。
「炭治郎」
カナヲの声に、足を止める。放課後の道々は、早過ぎる夏の訪れに茹だっているようにも見えた。足元から立ち昇る熱風が、首筋にべっとりと張り付く汗を撫でて、少し気持ち悪かった。
「美味しいと、言ってもらえるといいね」
誰に、とは彼女は何も言わなかった。俺ですら誰のために作っているのかわからないお菓子のために、彼女は何度となく感想とアドバイスをくれた。
カナヲのために作ったわけでもないと、知っていたはずなのに。
それでも彼女は微笑みを浮かべて、手を振って彼女の家へと向かって行く。唐突に『前世の記憶』という言葉が頭の中を通り抜けて、鼻先がカナヲの明るい感情の匂いを吸い込んだ。
この背中を押してくれるような、そんな優しさにあふれた匂いだった。
夏休み初日、茹だるような暑さの中で訪れたその家の立派さに、俺はあんぐりと口を開いた。表札に彫られた「煉獄」の文字の重みをずしりと感じるほどに、この辺りでは類を見ない広大な日本家屋だった。
その外観は、まるで古都の由緒ある旅館のようだった。幼い頃に家族で訪れた民宿とは違った、厳かな雰囲気がそこには満ちていた。どこまで続くのかわからない白い塀の向こう側には、謙虚さを兼ねた二階建ての家屋が垣間見える。一棟だけではない、離れのような家屋もあり、蔵もいくつか見えたのだからそれなりの敷地面積を誇っているはずだ。真夏の蝉の声が静かな玄関先にだけは届かないかのように、張り詰めた空気が漂っていた。
子供だってわかるぞ、この家がどれだけのお金持ちであるかくらい。実家である俺のパン屋なんて、すっぽり覆い隠してしまうだろう。
「す、すご……」
小さく呟いたつもりだったが、その声がやけに大きく響いた気がして、俺は慌てて背筋を伸ばした。すでに心臓は期待と怖れで爆発してしまいそうだ。初めて彼の家に来る緊張もあれば、これから始まる「修行」への不安もあった。
仰ぎ見る門戸の横に現代的なカメラ付きのインターホンを見つけて、俺は震える指でボタンを押した。CMでよく見る警備会社のマークも同時に視界に入って、思わず顔が強張る。
「あの、ごめんください、料理教室に入会しに来ました竈門炭治郎です」
『竈門さんですね、暑い中お越し下さってありがとうございます。どうぞ中へ』
落ち着いた女性の声音がインターホン越しに流れて、俺は恐る恐る門戸を押した。その瞬間だけは、ここが煉獄先生のお宅だということは、忘れてしまっていた。
部屋と見紛うほどの広さがある玄関で出迎えてくれたのは、薄紫色の上品なワンピースに白いエプロンを身に付けた、美しい黒髪の女性だった。長い髪を、緩く首の後ろで纏めていて、それもまた彼女の魅力を引き立てているようだった。凛とした面差しは、どこか煉獄先生を思わせる。
「はじめまして、煉獄瑠火です。あなたみたいな若い男の子が来ると知って、教室の皆さんがお待ちかねですよ」
ふふっと微笑みを浮かべる瑠火さんは、とても煉獄先生の母親とは思えないほどの若々しさをみせていた。白髪ひとつない髪のせいだろうか、うちの母よりもずっと若く見える。とはいえ、女性に年齢を尋ねることも、お若いですねなんて言うのはもっと憚られる気がして、緊張と唾とを綯い交ぜにして飲み込んだ。
「炭治郎さんと、お名前で呼んでも良いでしょうか」
「はい! どうぞ好きに呼んでください、煉獄先生!」
「瑠火先生でいいですよ、杏寿郎も先生ですからね」
長い廊下を、先行く瑠火さんに続いていく。彼女の背筋はピンと伸びていて、思わずこちらも身を正さねばならないと感じるほどだ。
「炭治郎さんは、杏寿郎の──息子の生徒さんでしょう。あなたのことは聞いたことがあります」
「え、煉獄先生が俺のことを?」
「ええ、とても優秀な生徒さんがいるのだと話してくれたことがあります。まるで古い友人との再会を喜ぶようでしたよ」
瑠火さんは少しだけ振り返って、目もとを柔らかく細めた。
「貴方に会えて嬉しかったのでしょうね、あの日ただ一度きりですが私に話してくれた生徒さんの名前は貴方だけでしたので、よく印象に残っているのです。……とはいえ、炭治郎さんはとてもお若いでしょう。杏寿郎とは、知り合いなのでしょうか」
前世からの繋がりがあるようですよ、なんて、他人事みたいに話すのも誠実でない気がした。貴女の息子さんから好意を寄せる匂いがしている、とも言えなくて……。
自然と足が止まってしまった俺に、瑠火さんも怪訝そうに歩みを止めた。
「知り合い……なんだと、思います。俺は覚えていないだけで、だからこそ煉獄先生……のことを知りたくてここに来たようなものなんです」
「……そうですか……」
瑠火さんはそう零しつつ、細い指を顎に宛てて何事かを思案した後、ふわりと花が綻ぶような笑みを見せた。
「仔細は概ね理解しました。まずは私の料理教室の雰囲気を体験していって下さいね。今日は夏野菜を使った料理なんです、炭治郎さんも頑張って下さいね」
料理教室は、教室専用に増築したと思われる近代的な調理室で行われた。
廊下を抜けた先、学校で見るような立派な調理室に辿り着いた時には、腰を抜かしてしまうかと思ったほどだ。
部屋の左手にはシンクとガスコンロ、調理台を一体にした机が三つほど並び、右手には先生専用なのだろう横長の調理台が広がっていた。先生専用の調理台の壁はホワイトボードになっており、今日の料理の手順が丁寧な字で書かれている。まさに、学校と寸分違わぬ施設である。個人で開く料理教室の中では、気合いの入れ方が尋常ではない気がした。
瑠火さんもまた、立派な講師なのだろう。
教室には、年配の女性が数人ほど和気藹々とおしゃべりに興じながら野菜を洗っており、俺が入室すると「いらっしゃい、炭治郎くん!」と、にこやかに出迎えてくれた。
自己紹介、まだのはずなんだけどな。
料理教室の女性たちに年齢や趣味、彼女の有無といったプライベートなことまで突っ込まれながらも、調理は順調に行うことができた。今日は夏野菜のパスタと、サラダ、冷製スープといった、暑い夏でもさらりと食べられるメニューだった。
「あら、炭治郎くんは彼女いないの?」
「炭治郎くんなら、女の子が放っておかないのに」
「いえ、俺は……今は気になる人がいるので……」
嘘ではない、頭の中は煉獄先生のことでいっぱいだ。
「あらあら! まー!」
「青春ねー!」
恋愛事情が好きなおば様方の盛り上がりに、俺は頬を熱くさせながら包丁を手に取って、トマトを薄くスライスした。その手付きが良かったのか、講師である瑠火さんは「包丁の扱い方は丁寧で素晴らしいですね」と、褒めてくれた。それに賛同しておば様方も俺を褒めそやすものだから、気恥ずかしくて顔を上げることができない。
「そういえば瑠火先生、杏寿郎くんのお見合いは順調なのかしら」
ふいにおば様方の話題に、煉獄先生の名前が上がった。自然と耳だけがその話題を拾おうとしてしまうのは、やっぱり、彼のことが気になるからなのだろう。
「杏寿郎くん、いい歳だものね。昔からよく男女問わずモテモテの子だったけれど、いい人でもいるのかしら」
「えぇ、人様の家庭の事情もあるけれど気になるのよね」
「杏寿郎は……」
瑠火さんは一度そこで区切ると、目を伏せがちに微笑みつつ、静かに首を振ってみせた。
「小さい頃から心に決めた人がいると言っていましたから、その言葉を私は信じていますよ」
心に決めた人。それは俺のことを指しているのだろう、自惚れなんかじゃない、前世のことを考えればごく自然なことだ。でも、幼少期の煉獄先生が想いを寄せていた相手は俺であって、俺じゃない。
今の俺じゃない、前世の俺に、ずっと恋い焦がれ続けているはずだ。
今も。
つきんと痛む胸が、煉獄先生への想いを明確に形作っていく。それを否定しきれない自分がいるからこそ、俺はここに来たんだろう。彼の家で、彼に喜んでもらうために、料理の腕を磨くんだ。家族に取り入るんじゃない、この俺自身の力で彼の心を動かしてみせるんだ。
人はこれを恋と呼ぶのだろう。
そうだ、俺は煉獄先生に恋をしてしまったのだ。
自分の気持ちに気付いてしまえば、何とも軽やかな心地だった。煉獄先生に笑っていてほしい、幸せでいてほしい、元気でいてほしい。この気持ちは俺が彼に恋をしているからこそ、自然と出てきた感情なのだろう。それはきっと、善逸が話してくれた『前世の俺』ではない、この今を生きる俺自身の気持ちだ。俺が持っている純粋で、真っ直ぐな恋心なんだ。だから、後ろめたさなど、ちっとも感じられない。
それから、俺は忙しい夏休みの日々を煉獄家の料理教室に費やした。基本的な調理はもちろんのこと、瑠火先生の気まぐれで、西洋菓子も習っていった。料理教室のおば様方とも一緒に。
瑠火先生はもともと家庭科の教師で、若い頃は学校で多くの生徒たちに料理を教えていたのだと言っていた。
「二人目の息子が生まれたことをきっかけに、学校を退職したのですが、やはり人に教えることをやめられなくて、主人にお願いして料理教室を開くようにしたのですよ」
瑠火先生は涼やかな顔でそう言って、「さ、私の昔話ばかりでは退屈でしょうから、皆さんも召し上がって下さい」と、ぱちんと手を叩いた。
教室に通い始めて一週間もすれば、俺はすっかり瑠火先生の生徒さんの一員となって、今日の料理を囲っても気負うことはなくなっていた。調理台の周囲におば様方と椅子を並べ、数々の料理をお互いに評価しながら食べていく時間は、とても居心地が良かった。
「先生の昔話、いつ聞いても退屈なんてしませんのに」
「ええ、特に旦那様の槇寿郎さんとの出会いのお話しは、何度聞いても惚れ惚れするわ」
ねぇ、とおばさま方は少女のようにコロコロと笑っている。俺も釣られて微笑んでいると、「そういえば!」と、おば様方の一人が俺の肩を優しく叩いた。
「今日は杏寿郎くん、お昼にはお仕事を終えて帰ってくるらしいわよ」
「教師のお仕事も大変よね、夏休みなのにゆっくり休む暇がなくって」
「あら〜杏寿郎くんのために、ご飯少しでも残しておけばよかったかしら!」
「何を言ってるのよ、炭治郎くんの料理が今日一番の出来栄えなんだから、それを持っていけばいいのよ!」
流れるように教室の雰囲気が変わり、おば様方は見事な連携プレーで俺が作った料理の皿に、テキパキとラップを巻き始めた。呆気に取られる俺をよそに、彼女たちはますますヒートアップして、調理室の戸棚から上品なお盆を取り出しては、清潔な布巾で拭き始めた。
「あ、あの……何を……?」
椅子から腰を浮かしてオロオロする俺に、おば様方はにんまりと笑って、そのお盆をずいとこちらに差し出した。
「さ、炭治郎くんの本懐を遂げましょうね!」
おば様方に押し付けられるように渡されたお盆には、今日頑張って作った俺の料理が並べられている。冷製スープと、ロコモコ丼である。確かに今までで一番の出来栄えではあるけれど、何故それを持って煉獄家の廊下を俺は歩いているのだろうか。
瑠火先生は止めるどころか、煉獄先生の部屋の場所も教えてくれた。おば様方は、頑張ってね〜と俺の背中を押してくれた。何がどうなっているのか、よくわからなかったけれど、何かが許されているような気がして、少しだけ嬉しかった。
許されるも何も、俺と煉獄先生には埋められない年齢差があるけれど──。
くんと鼻を鳴らせば、煉獄先生の匂いが廊下の先から漂ってくる。駆け出したくなる衝動を抑えて、一歩ずつ廊下を行き進む。
煉獄先生が喜んでくれるとは思っていない。迷惑がられてしまうだろうか、帰れと怒られてしまうだろうか。それでもいい、それでもいいと思ってしまうくらいには、煉獄先生にひと目会いたい気持ちのほうが強いのかもしれない。
「煉獄先生、竈門です」
辿り着いた襖の向こうに、静かに声をかける。薄い隔たりの向こうから、僅かに動揺の匂いが香って、喉の奥が震える。
「突然すみません。瑠火先生に習ったご飯を、持ってきました……夏休み、瑠火先生のもとで料理を教えてもらっていて、良かったら俺の料理を……食べて欲しくて……」
拒絶の匂いはしない。
困惑と動揺の匂いだけが色濃いだけで、やはり微かに俺に対する恋の匂いが漂ってくる。
素直になってほしい、だけど、強制はできない。
お盆を両手で抱えたまま俯いてしまった俺に気が付いたのだろう、すっと襖が開かれて、煉獄先生が目の前に現れた。彼は汗でも流してきたのか、清潔な白いポロシャツに、グレーのスラックス姿で、ほんのりと石鹸の匂いを纏っていた。金色混じりの赤い毛先も、しっとりと濡れて艶めいている。
「……ありがとう、入っておいで」
困った風に微笑みを見せる彼に続いて、俺は恐縮しながら部屋の中へと足を踏み入れた。
こじんまりとした部屋は、びっしりと本が詰まった書棚と窓際の文机くらいの家具しかなく、すっきりとした印象をみせている。収納は押入れがあるからそこに詰め込んでいるのかもしれないけれど、豪邸とも言えるような家に住んでいる人にしては、質素な暮らしをしていると思えた。その人は、その押入れから折りたたみ式のテーブルを持ってくると、それを部屋の中央に広げて、さっと机上をウェットシートで拭いてくれた。
いつだったか、社会科準備室でも同じようなことをしてくれた気がする。そんな些細な気遣いができる人だからこそ、この胸は震えてしまうのだ。
「待たせてすまない」
そう言われて、漸く自分がお盆を持ったまま立ち尽くしていることに気が付いた。
「いえ、こちらこそ、突然すみません」
膝を折り、テーブルに料理を並べていく。てっきり一人分だと思っていた料理だったが、皿は二人分ある。皿を並べつつ目をぱちぱちさせていると、
「……飲み物を持って来よう、少し待っていなさい」
気を利かせた煉獄先生が、さっと部屋を出ては、どこからか冷たく冷えた麦茶と、グラスをふたつ持って来てくれた。ただ彼に食事を届けるだけだと思っていた俺は、二人分の食器と料理とを交互に見遣りながら、降参したかのように煉獄先生と向かい合うようにテーブルの前に座ることとなった。
「君が、作ってくれたのか」
先生は、並べられた料理に目を細めている。
「はい、教えてもらいながら作ったものなので……味はどうか、わかりませんけれど」
「そうか……では、いただこう」
「はい、えと、いただきます」
「いただきます」
静かな声が響いて、煉獄先生がロコモコ丼に箸を入れる。スプーンを持ってきたらよかっただろうかと思ったけれど、彼は丁寧な所作で零すことなく、上品に口にしていく。
「うまい……」
噛み締めるように言われた言葉に、じんわりと嬉しさがこみ上げてきて、この気恥ずかしさを誤魔化すように、俺もまたロコモコ丼を食べることにした。先生は食べながら、何度も「うまい」と言ってくれた。素直に嬉しいという匂いも漂ってきて、こちらの箸も弾むように進んだ。
美味しかった、今まで食べたどんな料理よりも、美味しかった。
誰かのためにと、ただひたすらにお菓子を作っていた日々を思い返す。相手の顔も、相手の声も知らないまま作っていたお菓子は、いつも何かしら味が欠けていた。けれど今、自分が作った料理は、煉獄先生のことを考えて作っていた──彼が食べてくれるとは思っていなかったけれど。
ああ、わかった。
俺は誰のために作っていたのか。
きっと、煉獄先生のために作っていたんだ──煉獄先生のことを思い続ける『自分』がこの中にいるんだ。
「竈門……どうした……」
「え……」
テーブルの向こう側から、煉獄先生の手が伸びてきて頬へと触れる。その指先が瞼を濡らす涙を拭ってはじめて、自分が泣いていることに気が付いた。
「あれ、俺……なんで……」
「どこか痛むのか」
添えられた手に、この手をそっと重ねて目を閉じる。煉獄先生の手がひくりと動いた気がしたけれど、彼の持つ温もりや、その優しさを手放したくなくて。
「好きです」
心の奥から湧き出す言葉を、思いを声に載せる。
「俺は、煉獄先生が好きです」
ゆっくりと開いた視界に、驚きに目を瞠る煉獄先生がいた。困惑と、動揺の匂い。わかっている、いきなりそんなことを言われても、困ってしまうだろうということは。それでも伝えたい、伝えたいんだ。
「ご飯、美味しかったですか。美味しいって思ってくれていたら、嬉しいです。一生懸命作ったので……先生に美味しいと思ってもらえたのなら、作った甲斐があります」
「……ああ、美味しかったよ……」
先生の指が、頬を擽る。その擽ったさに身を委ねるように頬ずりをして、目の前の彼を見上げる。振り払うことも、諭すようなこともしないこの人の本当の気持ちはわからない。それでも、何だか全てを許されているような気がした。
先生は返答に困っているのか、ただじっと俺の目を見つめながら、小さく息を吐いた。やがて彼は両手で、俺の頬を包み込んでくれた。まるで春風のような、ほんの些細な風が吹き付けるように、俺と煉獄先生は触れるだけのキスを交わした。
涙が、首筋へとゆっくりと流れ落ちていった。
この先に、幸せがあると信じて疑いもせずに──。

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