5.俺だけを見ていて下さい
点と点が繋がって線になるという言葉があったように思うけれど、今のところ俺の周りで起こることは点ばかりで、ちっとも線になる気配はない。
煉獄先生から感じ取った匂い、準備室で『炭治郎』と呼んだ、あの切ない声色。
そしていちご狩りで出会った善逸、伊之助という名前の少年たち。中学校の入学式で俺の名を呼んで泣いたカナヲ。
共通する点といえば、初対面なのに俺の名前を呼んだことくらいだろうか。それに煉獄先生は何と言っていただろうか、『古い友人』だと。
古い友人、相手は俺と同じくらいの年頃の子供だったように思うけれど、それがどうして『古い友人』となるのだろうか。彼らが幼い頃にでも出会った『古い友人』なのだろうか。
考えても考えても、何もわからない。
考えないほうが、いいだろうか。
週明けの学校は、どこか落ち着かなかった。いちご狩りで煉獄先生に抱きしめられたことや、彼に触れた時に感じた彼自身の気持ちを──まだ、うまく消化しきれないでいるからだろう。
「炭治郎、おはよう」
「ああ……、おはようカナヲ」
カナヲは、廊下ですれ違いがてら小さく手を振り返してくれた。けれど、あの二人の少年のことや、かつて流した涙の理由を聞く勇気は、どうしても出来なかった。遠慮とか、そういうものではない。知ってしまったら、煉獄先生の気持ちに気付いてしまったように、今の自分でいられないような気がしたからだ。
「さあ皆、席に着いて、授業を始めるぞ」
煉獄先生の溌剌な声にハッと顔を上げて、いつの間にか三限目の歴史の授業の開始時刻になっていることに気が付いた。
間延びしたチャイムの音に合わせて、煉獄先生の革靴がキュッと床を擦る音が響いた。眩いほどの黄金色の髪は、毛先に向かうほどに赤く染まっている。教室を振り仰ぐ精悍な顔には、猛禽類を思わせるような金と赤の色彩に染まった目が見事に嵌っている。その目が一瞬だけ、俺を捉えた。気のせいなんかじゃない、俺だけを見つめて、誰にもそうと気付かれないままに視線は黒板へと流れていった。
たったそれだけのことなのに、何でもないことのはずなのに、俺の胸はずきりと痛む。
ああ、もう一度だけ、もう一瞬でいいから、俺を見て欲しい。見て欲しい、俺を……その宝石めいた瞳の中に、閉じ込めて──。
大きくゆっくり深呼吸をして、放課後の社会科準備室のドアに手をかける。
今まで何の気なく開いていたドアなのに、ここを開く勇気が今日に限って出てこない。微細な隙間から、煉獄先生の匂いが届き、彼がこのドアの向こうにいることは、理解できている。
煉獄先生……。
いつだって優しい煉獄先生。誰に対してもそうなのに、その惜しみない優しさを自分にだけ向けて欲しいなんて、子供じみたことを考えてしまう。あの日、抱きとめてくれた腕の中に、いつまでも包み込まれていたいと思った、その感情の名は──。名をつけることを逡巡してしまうそれを、ごくりと飲み込んで「失礼します」と断りを入れて、ドアをスライドさせた。
「竈門……」
資料を整理していたのだろう、書棚の前でいくつもの冊子を腕に抱えていた先生が、目を丸くしてこちらを振り向いた。僅かに漂った動揺の匂いごと手放したくなくて、俺は許可も得ずにドアを施錠した。
無機質な音の響きに、煉獄先生もただならぬ俺の様子に気が付いたのかもしれない。どうした、そう言いながら、持っていた資料を部屋の奥のデスクの上へと乱雑に置いた。
「何かあったのか、栗花落君と喧嘩でもしたのか──」
「カナヲは、関係ないです」
どうしてこの人は、ここにいない子の名前を口にするんだろう。
「煉獄先生」
一歩、踏み出した勢いで煉獄先生の顔を真っ直ぐに見つめる。
「煉獄先生は、俺のことが好きですよね」
直球的な言葉。彼の瞳孔がほんの少し開いた気もして、俺は確信を得る──戸惑いをみせる彼から、今だってずっと俺が好きだという匂いがしてくる。
こんなにも甘く、強い匂いをしているというのに。
俺は、今までちっとも気が付けなかった。
「生徒としてではなくて、家族に──いや、それ以上の好意を俺に持っていますよね、わかるんです、俺……俺は、煉獄先生の感情が匂いでわかるんです、先生は俺のこと」
「──そうだと言ったら、君はどうするんだ」
煉獄先生は腕を組みながら、すっと目を細めた。怖いくらいに凄まれて、ひくりと喉が鳴る。怒りではない、何だ、よくわからない感情だ。
この匂いは何だ。
「……匂いで人の気持ちを探るのはやめてくれないか」
「俺の鼻のこと、知っているんですか」
「竈門、大人を揶揄うのはやめてくれ、俺が君にそういう感情を持っていたからといって、君には何の関係もないだろう。君には……好い人がいるだろう。その子のことを考えたらわかるだろう」
「好い人って、誰のことですか」
「わからないのか、君のそばにいるだろう」
いつもの煉獄先生ではない、どこか焦りのようなものが垣間見えて、ますます彼が抱く感情に胸が焦がれていく。
「わかりません、俺には煉獄先生が俺を好きなことくらいしかわかりません」
「……生徒を嫌いなわけがないだろう……」
「違います、煉獄先生は俺のことを好きなんです、そういうものには疎い俺だって、先生から漂う匂いが恋愛感情だってことくらいわかります!」
捲し立てるように言い放って、言葉を失ってしまった彼を見上げる。彼は俺を拒むように腕を組んだまま、険しい顔をしている。
「竈門……落ち着きなさい、お茶でも淹れよう……君は俺の匂いに当てられているだけだ……」
そう言ってくるりと後ろを向いてしまった人の背に、俺は声を張り上げる。
「見ていてくださいよ、俺を。今までずっと俺を見てきたのだったら、好きだって言うのなら、今までと変わりなく俺を見てください!」
見ていて、見ていて、俺を見ていて。
甘く蕩けるような目で、世界一君が好きだと訴えかける匂いを放ちながら、俺だけを見ていてほしい。
煉獄先生は、俺に背を向けたままゆっくりと首を振る。
「無理だ、……怖いだろう、こんなおじさんが君のことをそういった目で見ているなど……許されるはずが……それに君には、……君には相応しい相手がいるじゃないか」
「相応しいか、相応しくないかは自分で決めます」
「竈門、君は自分が何を言っているのか……わかっているのか」
「わかっています」
煉獄先生は大きく肩で息をして、自身を抱きしめるように組んでいた腕を解き、俺を振り返った。教壇で見る穏やかな眼差しではない、刺すような鋭い視線に、思わず唾を飲み込んだ。
「成人男性に好意を寄せられて、怖くないのか」
「怖くないです」
「俺が怖いとは思わないのか」
「思わないで──」
続けようとした言葉は、ふいに手首を強く引かれたために霧散した。強い力で煉獄先生に引き寄せられて、俺は彼の広い胸の中に抱き寄せられた。突然の急接近に鼓動が大きく跳ねる。
「先生、あの」
ぐいと腰を引き寄せられ、有無を言わさぬ力で顎を掬い上げられた。強制的に視界が交わり、そのとてつもない眼光の力に、息を呑む。
「怖いだろう、君と俺とでは腕力が違い過ぎる。君は、俺がこういういやらしいことを考えていないとでも思ったのか、ほら、口付けなんて簡単にできてしまうぞ」
「せ、先生……っ!」
言うが早いか、煉獄先生の唇が口もとに触れる。けれどそれは、俺を拘束する腕の力よりもずっと弱く、皮膚の上を掠めるだけだった。
キスをしたって構わないのに。
俺の思考を読んだわけでもないだろうけど、煉獄先生はキスの真似事をするなり、俺の肩をぐいと押して引き離してしまった。触れそうだった唇が、物寂しげに尖っている様子を見ていたのだろうか、煉獄先生はまた目線を外して、拒絶するように腕を組んだ。
「大人はずるい生き物だ、一方的な好意を子供の君が真に受ける必要はない。……帰りなさい」
返事もできずに、ただ俺は駄々をこねるように首を振るしかない。嫌だ、嫌だ。ああ、何が嫌なのだ、彼が自分を突き放すからなのか、思い通りにならないからなのか。
きっと両方だ。
「帰りなさい」
煉獄先生と震える声で名を呼んでも、彼の目はもうこちらを捉えてはくれなかった。頬を伝っていく涙を止められないまま、俺は足を引き摺るようにして彼から背を向けた。そうして、この閉鎖空間を解錠して、ここを後にする。胸は張り裂けんばかりに痛くて、痛くて。堪らないほどに苦しかった。
煉獄先生の強い拒絶の匂いが鼻に残り、後から後から涙が溢れてどうしようもない。
休日の朝、店の厨房に立って無心で菓子作りに励んでいる自分がいた。このところ苦戦しているさつまいもプディングだ。このプディングを美味しいと言ってくれた人は、もう二度と食べてくれないかもしれない。そう思うと、視界が滲んでしまって、プディングの溶液を混ぜることすらできなくなる。
しっかりしろ、長男だろう、俺は。
「お兄ちゃん、またお菓子を作ってるの?」
ぐいと目もとを手の甲で拭っていると、ひとつ下の妹の禰豆子がひょっこりと厨房に顔を覗かせた。
彼女は自慢の黒髪をきれいにセットして、おしゃれな洋服に身を包んでいる。厨房に入れる服装ではないから、レジ横からこちらに声をかけてきたのだろう。
「ああ、うん……でも今日はうまくいかないや……禰豆子はどこかにお出かけか? 天気もいいからな」
「うん、……ええと……今日はデートなの」
「ん? デート?」
意外な単語に呆ける俺に、禰豆子ははにかんでみせた。
「うん、今日は大好きな人とデートなんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺はそんなこと聞いていないぞ、というか誰なんだ、デートなんて! 禰豆子、お前は中学生じゃないか!」
プディングのことなんてもう頭にない。俺は慌ててエプロンを脱いで、厨房を飛び出した。厨房を出てすぐの店内では母がお客様と談笑していて、いつものかまどパンの穏やかな日常が流れていた。
禰豆子は後ろ手に手を組みつつ、「いい人なの」と頬を淡い色に染めた。
「今度、お兄ちゃんにも紹介するね! 善逸さん、とっても素敵な人なのよ!」
「いや紹介とか……え、善逸……?」
最近聞いたことのある名前に、足が止まる。よくある名前ではないから、もしやという考えが頭を過る。
「善逸って……我妻善逸という名前の男か……?」
「え、何で……善逸さんのことを? もしかして……お兄ちゃん、善逸さんと知り合いなの?」
「俺の知る善逸なら……」
いちご狩りハウスで出会った、不思議な少年たちの一人、我妻善逸。初対面で俺の名を呼び、煉獄先生のことも知っていた少年。
今の今まで忘れていたが、彼に訊ねたら何かわかるだろうか。少しでもいいから、煉獄先生のことが知りたい。
「禰豆子、俺もデートについて行っていいか」
「お兄ちゃん……過保護も行き過ぎると気持ち悪いよ」
怪訝な顔をする禰豆子に何と説明したら良いものか。
俺は顔をギリギリと歪めつつ、
「善逸とは知り合いなんだけど、最近喧嘩しちゃって……もう一度謝りたいから、善逸に連絡させてほしい」
と、苦し紛れの言い訳をするしかなかった。禰豆子は、そうやって俺が変顔を披露する時は嘘をついているとわかっていながら、「しょうがないな、ちゃんと善逸さんに謝ってよね」と困った風に笑ってくれ、善逸の連絡先を聞き出すことができた。
少しでもいい、煉獄先生を知るきっかけになれば。
翌日の日曜日、休日の賑わいをみせるファストフード店に赴くと、奥の席で黄色い頭の少年──善逸がにこやかに手を振ってくれた。どうやら今日は彼だけのようだ。
「久しぶり、いちご狩り以来だな、炭治郎」
「ああ……今日は、あの青い髪の奴は来ていないのか?」
善逸に促されるままに椅子を引いて腰掛ける。
「伊之助はバスケの試合。特に部活動に入っているわけじゃないんだけど、あいつ運動神経がいいから、よく誘われるんだよ」
「そうか」
「でも驚いたな、禰豆子ちゃんから炭治郎のことで連絡が来るなんて──いや、いつか禰豆子ちゃんを通して炭治郎に連絡できたらとは思っていたけれど」
「……つまり、善逸は俺の妹が禰豆子だと知っていたんだな」
善逸は、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「うん、ずっと昔から禰豆子ちゃんのことは知っていたよ、いつか会えたらと思って……同じ学校の、それも同級生だと知った時には、運命感じちゃったな〜」
「禰豆子は誰にもあげないぞ、と言うかまだお互い中学生なんだから、デートとかいうふしだらな交遊はやめてもらいたい」
「いやいや、俺も中学生よ? まだ手だって繋いでない清い関係よ?」
「俺は、お前たちの交際を認めない」
「いや、お父さんかよ」
禰豆子と善逸の交際については不満があるが、今はそれどころではない。彼が禰豆子を知っていたように、煉獄先生とも知り合いで、俺のことも知っていた、その理由だ。
「善逸、聞いてもいいか」
「……ま、そりゃ気にならないわけないよな、初対面の人間が親しげに声をかけてきたら──あやしい勧誘とか、そういうふうに思っても仕方ないよね」
これから話すことは決して御伽噺でも、スピリチュアルな事象でもないんだけど──そう前置きをして善逸が語り出したことは、この世のものとは思えない壮絶なものだった。
ほんの百年前くらいまで、人を食らう鬼がいたこと。その鬼を狩る鬼殺隊と呼ばれる、政府非公認の組織がいたこと。
俺はその世で家族を鬼に殺され、妹を鬼にされたのだと遠慮がちに教えられ、息を呑んだ。
善逸はつらそうな顔を浮かべながら、その先を話してくれた。
俺と善逸、伊之助はその鬼殺隊の隊士として鬼を斬っていた。戦いはいつだって厳しく、時には大きな悲しみを伴って続いていった。たくさんの犠牲を払い、多くの涙を流しながら、俺たちは鬼の始祖である鬼舞辻無惨を倒すことができた。そして禰豆子は人間に戻り、平和が訪れた。
「煉獄さんは、柱と呼ばれる、鬼殺隊の最高位の剣士だったんだ。炭治郎は鬼殺隊をまとめるお館様の前で、鬼舞辻無惨を倒すと豪語したみたいでさ……そういう、真っ直ぐなところに、煉獄さんは惹かれていったんだろう」
そして俺自身も、煉獄さんと共に赴いた任務をきっかけにして、彼に心を奪われていったようだ。
「煉獄さんは一度、鬼との戦いで生死を彷徨った。片目を潰され、腹に大穴を空けて、もう誰にも彼を助けることはできないと思われていた。それでもお前は、いつ死ぬかわからない煉獄さんの手を離さなかった」
「煉獄さんは……」
蒼白な顔をしている俺に、善逸は寂しそうに目を伏せた。
「神様の気まぐれで、煉獄さんは一命を取り留めた。その時の……炭治郎、お前の悲鳴のような泣き声は、今でも忘れられないよ……煉獄さんの生還を誰よりも願い、信じていたんだろうな」
煉獄さんは戦えない身体になってしまったが、その燃えるような意志を繋いで、俺は戦ったというのだ。
燃やせ、燃やせ、心を燃やせと。
「無惨を倒した後、煉獄さんは炭治郎と共に人里離れた山奥へと移り住んでいった──俺が知るのは、ここまでだ。……二人がどんな暮らしをしていたか、想像はできるけど、結局は想像だけだ。禰豆子ちゃんと俺の祝言は祝ってくれたし、子供の誕生のお祝いに一度だけ顔を見せてくれたけれど。それっきり、俺たちは二人に会えなかった」
二人が山に住んでから数年後、鬼殺隊が伝達役として使役していた鴉たちが二羽、二人の死を知らせるまでは。
現代ミュージックに包まれた店内で聞くには、壮大過ぎるストーリーだ。けれどそれを与太話だとは、思えなかった。善逸から漂う匂いには、嘘の欠片もない。紛れようもない、真実だとわかる。
「俺が思うに、二人はお互いを想い合う仲だったんじゃないかと思う、恋人という言葉に当て嵌めていいのかわからないけれど」
「……だから、煉獄先生は俺を……」
俺を見るたびに好きだという感情を抑えられず、時には切なそうな目でこちらを見ていたのか。
ああ、点が線になった。
俺が抱く子供じみた恋心なんて霞むほどの、重く深い絆が二人にはあったのだ。だから彼は、単純に好きだ何だと言って、俺をその腕の中に抱いてくれないのだ。

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