2.忘れたくない人
社会科準備室で、煉獄先生が目の前で泣いた。
炭治郎、と涙ながらに名を呼ばれた時、胸の奥で何かが震えて歓喜の声を上げているように、俺には感じ取れた。けれど、それはどこか遠くの知らない誰かの声のようで、自分には不釣り合いな感情だった。
だって、入学したばかりの学校の先生に泣きながら名前を呼ばれる理由なんて、わからないから。
「せ、先生、ゆっくり、ゆっくり休んでくださいね……!」
湯呑みを抱えたまま、ほろほろと泣いている美しい人を置いて、俺は逃げるように社会科準備室を飛び出した。
琥珀色の瞳から零れ落ちる涙の意味に、気付いてしまいたくなかったから。
煉獄先生は、闇夜に静かに輝く月のような人だと勝手に思っている。そうクラスメイトに言うと、煉獄先生は太陽みたいな人じゃないかと、意外だとばかりに驚かれる。
そうだろうか。
確かに授業中の、後ろの席までよく通る声や、明るい笑顔は太陽にも見えるかもしれない。けれど時折、腹痛に顔を歪ませる彼を垣間見て、俺は煉獄先生のことを月のような人だと思ったのだ。そんな人に目の前で涙を流されて、動揺しないわけなんてない。
ああ、まるで、月が泣いているようだった。
金色の髪のせいだろうか、白い肌のせいだろうか。
二人きりの時にだけ、穏やかな声で話してくれるからだろうか。
そんな彼が泣いて、俺の名を呼んだ──。
校舎を飛び出して見上げた夕焼け空。その赤紫色の空に浮かぶ静かな月ですら、泣いているように見えた。
翌日の歴史の授業には、代わりの先生が教壇に立っていた。煉獄先生は体調不良で数日休むそうだと聞いて、俺もクラスメイトたちも皆驚いていた。驚いたとは言え、いち生徒に何もできることはない。どうして休んでいるのかと先生たちに聞くことはできるかもしれないが、それを聞くような理由は思い浮かばなかった。
俺の名を呼んで泣いていたから、なんて、そんなことを口にしてしまったら、そのほうが怪しまれるに決まっている。教師が理由もなく生徒の前で泣くなんてこと、あるはずがない。
ならば彼には、どのような理由があるというのだろうか。
頬杖をついて物思いに耽ってみても、それらしい理由は思い浮かばなかった。ただ、目を閉じればあの涙が、美しいとすら思えた涙ばかりが浮かんでくる。
あの涙を拭ってあげていたら、何かが違ったのだろうか。
つらつらと、余計なことを考えていたせいだろう、いつの間にか廊下を歩いていた。ほんの少し行けば職員室というところで、足が止まる。
煉獄先生が休む理由を聞いてどうするのだろう。
彼が休んだからといって、こんな風に不安に思う謂れはないというのに。
帰ろう。向かいかけた足をくるりと引き戻す。数日の療養だと聞いていたから、きっと風邪でも引いたのだろう。そう納得させて歩き出そうとした時、「竈門、どうした」と、とある教師の声が引きとめた。
振り返ると、銀色の派手な髪色に、チカチカと光るバンダナを巻いたとびきり目立つ風貌の教師が、ポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「宇髄先生……」
この派手な先生は知っている。美術教師の宇髄先生だ。ひと目で彼とわかる派手な姿は、おれたち新入生たちの間では噂が絶えない。嫁が三人いるだとか、とにかくドハデなことが好きであることとか。
俺は咄嗟に一礼して、苦笑を浮かべた。
「いえ、用があるような気がしたのですが……気のせいでした」
「煉獄のことか」
濁すような言葉に被せられた名前に、一瞬息を忘れてしまった。
「煉獄なら、古傷が痛むって言って臥せってる。いつものことだ」
聞きたかったことを教えられて戸惑っていると、宇髄先生は目を柔らかく細め、片手をポケットから抜いてこちらの頭にぽんとのせた。あたたかい手の感触に、声も出ない。
「今でも煉獄のことを気にしてくれているんだな、ありがとな」
「宇髄先生……?」
何を言っているのか、よくわからなかった。そんな顔をしていたんだろう、宇髄先生は力をこめて俺の頭をワシャワシャと撫でてから、ふいにその手をぱっと離した。
「あいつも未練たらしい男なんだ、竈門が気にすることはねえよ。とにかく今を幸せに生きていくんだな」
「あの、どういうことですか」
「早く帰りな、かわいい彼女ちゃんが待ってんだろ」
「彼女ってなんですか」
いまいちピンとこない単語に顔を顰めると、宇髄先生は意外だとばかりに目を丸くした。
「彼女だよ、お前の……いつも一緒にいる女の子」
「俺に彼女なんていませんよ」
宇髄先生は小さく「マジか……」と零して、大袈裟に肩を落としていた。彼が何を言いたいのか、よくわからなくて、俺は「すみません、失礼します」と言い置いて、逃げるようにその場を去った。宇髄先生が俺の名を呼んでいた気もするけれど、今はそんなことを気にする余裕はなかった。
煉獄先生を気にする理由がわからない。けれど、彼が苦しむ姿を思い浮かべるだけで胸が軋む。
今はただ、それだけが真実だ。
「待たせてごめん!」
そう声をかけた少女は、いつ見ても表情の読み取れない微笑みを浮かべて静かに首を振った。
放課後は部活動に忙しない生徒たちが多く、靴箱には彼女しかいなかった。彼女は蝶をモチーフにした髪飾りを明るい夕日に煌めかせ、姿勢良く両手で鞄を持っている。
「ちょっと職員室に用事があって……」
用事らしい用事はなかったけれど、とは言えずに不器用に笑ってみせると、少女は小さく頷いた。彼女の微笑み方は人形のようにも思えるほど、作りものめいた笑みだった。きっと、感情の機微を表現することが難しいのだろう。
「いつもごめんな、カナヲ。付き合わせてばかりで……」
「ううん、炭治郎と一緒だから、嬉しい」
カナヲと呼んだ少女は、喋る時だけ少しその感情を見せることがある。どうやら、俺に会えたことは素直に嬉しいらしい。それにほっと胸を撫で下ろしつつ、靴箱の靴を入れ替える。カナヲもそれに倣うように靴を履き替え、俺たちは校舎を後にした。
行き過ぎる男子生徒たちが一瞬、惚けたようにカナヲを見つめているような気もした。けれど俺は人の美醜には頓着しないから、彼らがどういう目で彼女を見ているのかわからない。
「炭治郎」
隣り合って歩くカナヲが、控えめに俺の名を呼んだ。
「私は炭治郎のことが、好き」
「ああ、俺もカナヲのことが好きだぞ」
感情は読み取り難いけれど、素直な彼女のことは人として好ましいと思っている。カナヲはじっとこちらの目を見つめ、少しだけ目を伏せながら「ありがとう」と頬を赤く染めた。カナヲは照れ屋さんだな、と微笑ましい気持ちで鞄を肩にかける。帰路につく道のりは、初夏らしく清々しいほどによく晴れていた。
「ただいま」
ドアベルを軽やかに鳴らしながら、木枠に硝子を嵌めたドアを押し開く。ドアには、丸い文字で『かまどパン』と書かれている。
「お邪魔します」
カナヲは頭を下げながら、俺の後に続いた。板張りの床が広がるその場所は、香ばしい小麦の匂いでいっぱいのパン屋──俺の生家だ。
入ってすぐ出迎えてくれるのは、いくつものバスケットに陳列されたパンたちだ。中央のテーブルには、この季節一押しのパン。レジカウンター下の棚には、日常の食卓に欠かせない食パンや、バゲットなどが並んでいる。
パン屋としてはシンプルな品揃えだ。シンプルだからこそ、人気のパンはすぐに品薄になる。そのため、うちでは朝だけではなく昼過ぎにも、もう一度パンを焼いている。そのおかげで夕方のお客さんをも、満足させられるのだ。
「おかえりなさい。あら、カナヲちゃん! 今日も来てくれたのね」
カウンターの向こうから明るい声が上がる。
「はい」
カナヲが律儀に頭を下げる相手は、俺の母だ。白いバンダナを頭に巻き、清潔なエプロンを身に着けて、にこやかに笑う母の姿に、ほっとする。マザコンというわけでもないんだろうけれど、母がただ笑顔で生きてくれているというだけで嬉しい気持ちになる。そう思うのは、男子高校生としておかしいだろうか。
「母さん、ちょっと厨房に入るね。カナヲは楽にしてて」
「カナヲちゃん、そこの椅子にかけていいからね。炭治郎、あんまりカナヲちゃんを待たせては駄目よ!」
「わかってるよ!」
窓際の小さなイートインスペースの椅子にカナヲが腰掛ける様子を見て取りつつ、急ぎ厨房へと足を踏み入れた。
逸る気持ちで開いたのは、業務用の冷蔵庫。その中に置いてあるのは、瓶詰めのプディングだ。いくつかあるプディングは朝に作ったものだ。そのひとつをそっと手に取って、目を細める。濃い黄色のプディングはよく冷えていた。
使い捨ての袋入りスプーンも持って店内へと戻ると、カナヲは行儀よく椅子に腰掛けながら窓の外を眺めていた。母は夕方から増えていく客の相手に忙しい。こんな時間に馬鹿なことをやっているとは、自分でも思う。でも、どうしても気が急いてしまって止められないのだ。
「お待たせ、カナヲ」
プディングの瓶を、カナヲに手渡す。カナヲは促されるままスプーンを手に取って、プディングに差し入れる。いつもの光景だ。何度となく繰り返された光景だが、いつだって緊張してしまう自分がいる。
味は悪くないか、配合は間違えていないか、香りは、舌触りは。上手にできていないと『あの人』に申し訳ないから──。
でも肝心の『あの人』が誰かを、俺は知らないままだ。
何かに取り憑かれたみたいに、俺はこのプディングを作り続けている。
それを気味が悪いと思ったことがないと言えば嘘になる。けれど、完成させたそれを見るたびに思うのだ。きっと『あの人』も喜んでくれるはずだと。
「うん、美味しいよ」
「よかった……あの、足りないところはない? 匂いとか、変じゃない?」
「……前よりさつまいもの匂いが、足りないと、思う」
言葉を探りながら応えるカナヲの感想を、ポケットに捩じ込んでいたメモ帳に書きつける。あの材料が良くなかったのだろうか、今度はあれを配合してみよう。
などと、一心不乱にメモに文字を書き付けていた時、ふいに窓の向こうにキラリとした光を感じた気がして目をあげた。宵闇に染まりつつある街並みに浮かぶ、黄金色の気配、琥珀色の瞳の人──煉獄先生が目を丸くして窓の向こうに立ち尽くしていた。
瞬きひとつの間に、煉獄先生はバツが悪そうな顔をしてその場を去ろうとした。その様子にずきりと胸が痛んで、弾かれたように俺は動いた。急に店外へと飛び出して行ってしまった俺は、カナヲや母が呆気にとられていたことになど気付かない。
「煉獄先生!」
雑踏の中に紛れてしまいそうになる人を呼び止める。周囲の人は何事かと振り返っていて、気恥ずかしさに頬が熱くなった。
「竈門……」
煉獄先生も周囲の目線に堪えきれなかったのだろう、ゆっくりと足を止めて振り返ってくれた。心なしか顔色が悪いように思えて、俺は小走りで彼のもとに向かった。煉獄先生は、学校では見たこともないようなスマートな服装に身を包んでいた。服の呼称については疎いから、煉獄先生は私服もかっこいいんだなと、俺は単純に見惚れてしまった。
「もう、お加減はよろしいのですか」
「……ああ、散歩できるくらいには。週明けからは学校に行ける、心配をかけたな」
そう言って笑ってみせる彼は、少し無理をしているようにも見えた。街中では様々な匂いが交差していて、煉獄先生の感情は読み取り難いけれど、青白い頬を見れば具合が良くないことくらい、馬鹿でもわかる。
「先生、よかったらうちに……あの、うちはパン屋なんですけど、イートインもありますし、少し休んでいかれませんか」
「いや……気遣いは嬉しいが、……すまない……」
煉獄先生はハの字に眉を下げて、そっと目を伏せた。憂いを含むようなその表情に胸が騒いで仕方がない。どうにかしたい、どうすればこの人を笑顔にできるだろうか。そんな焦燥感に駆り立てられた俺は、ある閃きに目を輝かせた。
「あのっ、先生少し待ってていただけますか! すぐに戻ってきますから、渡したいものがあるんです!」
煉獄先生が驚きに顔を上げるよりも早く、俺は急ぎ店内へと戻った。慌ただしい俺の様子に「どうしたの、炭治郎」と母もびっくりしているようだった。カナヲはどうだっただろう、そんなことにまで気が回らなかった。
冷蔵庫からプディングを取り出し、商品用の厚手のビニール袋へ丁寧に入れると、ついでとばかりに紙袋の中へと入れこんだ。もちろん、保冷剤も一緒だ。その紙袋を大切に腕の中に抱えこんで、再び店外へと走り出す。
煉獄先生は待っていてくれるだろうか。
息を切らしながら飛び出た店の前、果たして煉獄先生は目を丸くしつつ待っていてくれた。そのことが何よりも嬉しくて、彼の手を取るような勢いで紙袋を差し出した。
「これ、俺が作ったさつまいもプディングなんです! お口に合うかどうかわかりませんが、よかったら食べてみてください、何年も研究してきたもので、まだ試作品なんですけど、煉獄先生にも食べて欲しくて……!」
一気に捲し立ててから、煉獄先生の呆けた顔を見上げてハッと我に返った。
何をしているんだ俺は……。煉獄先生は具合が良くないんだぞ、こんなもの食べてくれるわけないだろう。
かーっと顔を熱くさせつつ、次第に意気消沈していく俺をじっと見守ってくれた先生は、柔らかく微笑みを浮かべて紙袋を胸に抱いた。僅かに触れた指先は、優しいぬくもりの温度をしていた。
「ありがとう、大切に食べるよ」
その時の煉獄先生の幸せそうな顔は、きっと忘れることなんてできない。いや、忘れるつもりなんてない。こんなにも美しく笑う人のことを忘れたくなんてない。
本心からの叫びに、俺も釣られるようにして笑ってみせた。
店に戻ると、すでにカナヲは帰ってしまっていた。入れ替わるようにして帰宅した妹の禰豆子が、先ほどの俺の様子を見ていたのか、やけに上機嫌にニコニコと笑っていた。俺とよく似た顔の禰豆子は、学校の鞄を片手に目を輝かせた。長い黒髪が靡いて、女の子らしくなったと感慨深い気持ちにさせる。
「ねえ、さっきの人がお兄ちゃんの運命の人?」
「運命の人って、何だ?」
厨房横に備え付けてある水道で手を洗っている俺に、制服姿のままで禰豆子は鈴のように笑った。
「だって、カナヲさんにお菓子を食べてもらっている時よりも、お兄ちゃん緊張していたじゃない。あの人のために作っていたんじゃないの」
「そういう……つもりじゃないけどな……」
プディングを受け取ってくれた煉獄先生の顔を思い浮かべる。微かに感じた嬉しさの匂いに頬が緩む。彼のために作ったわけでもない、ただ、衝動のままに作ったものだったけれど、結果として彼の笑顔になるのなら。
「でも、作ってよかったとは思っているよ」
禰豆子はそんな俺の返答に「へぇ〜」と、何か勘違いをしているのかにやけていたけれど、訂正するほどではないかと、俺は肩を竦めた。
「運命の人か……」
煉獄先生が自分にとってそういう人だったら。ふとそんなことを考えて、馬鹿らしい考えはやめておこうと、心の中で首を振った。
胸の内は震えて止まなかったけれど──。

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