百年の恋が冷めても、それでも俺は君に恋をする - 4/8

4.その気持ちの名前は

 

療養明けの煉獄先生はどこか危なっかしくて、見ていられなかった。
痛みは無さそうだったけれど、時折どこか遠くを見ているような顔をして、何でもないところで躓いてしまうこともあった。だから復帰を喜ぶよりも、俺は彼を助けることを率先した。そのたびに「ありがとう」と微笑まれることが誇らしい。彼の力になれることが、何よりも嬉しい。
こんな気持ちは初めてだ。
ああ、もっと先生に笑っていてほしい。

夕方、そろりそろりと準備室のドアを開いた。
部屋の奥で、煉獄先生は驚きに目を丸くして腰を浮かせていた。その様子に、申し訳ない気持ちが沸いて、彼が気を悪くしないように姿勢よく背筋を伸ばした。
「この間は妙なものを渡してすみません、お口に合わなかったですよね……お詫びにうちのパンを持ってきました」
煉獄先生はなんとも言えない顔をしていたが、俺がなかなか部屋に入ってこないのを見て取って、準備室の壁からそっとパイプ椅子を広げてくれた。
「あ、あの……」
ただパンを届けに来ただけなのに、と思うけれど、煉獄先生は黙ってパイプ椅子の埃を拭ってくれた。こうまでされたら、はいどうぞとパンを渡すのも忍びない。俺は申し訳ない気持ちで「ありがとうございます」と返しつつ部屋の中へ足を踏み入れた。
「先生、どうぞお構いなく。俺は、パンを届けに来ただけなので……」
「いや、この間の礼もある、汚いところで申し訳ないが少し待っていてくれ、お茶でもご馳走しよう」
「いえ、そんな! いいですから!」
「おいしかったよ」
煉獄先生のあたたかい言葉に、顔を上げる。
「さつまいもの風味がして、まろやかで舌触りが良かった。君は、料理が得意なんだな」
彼は感心するようにそう言い置いて、準備室奥の小さなシンクでお茶を淹れ始めた。何だかんだで、煉獄先生も頑固な一面もあるようだ。
畏れ入る気持ちで腰掛けたパイプ椅子は、想像以上に軋んでしまった。
「料理が得意と言いますか、……うちはパン屋なので……色々と作ってみているんです」
紙袋を膝の上に載せて、今朝のことを思い浮かべていけば、自然と目線が足もとへと落ちていく。
「パン屋の息子なのに、パンはうまくいかないんです……今朝も作ってきたんですけど、俺の生地だけ発酵が進まなくて。……あ、これは父の作ったパンなので! 味は保証します!」
そう言ってずいと差し出した紙袋に、煉獄先生は目をぱちぱちと瞬きしつつ受け取ってくれた。
「ありがとう……もらってばかりで申し訳ないな、男の淹れるお茶だが……よかったら」
彼が淹れてくれたお茶の香りに、頬が緩む。礼儀正しい先生のことを好きにならない人はいないんじゃないだろうか。
こんなにも素敵な人だ、きっと誰もが放っておかない。
ずきりと痛む胸に小首を傾げる。でもその痛みはあまりにも一瞬過ぎた。だからこそ、気にも止めずに笑えるのだ。
「お茶美味しいです、こちらこそありがとうございます! プディング……さつまいものプディングを作るのは俺の趣味みたいなもので、先生に喜んでもらえたのなら頑張ってきたかいがありました」
「どのくらい頑張ってきたんだ」
「十歳の頃から、何かに取り憑かれたみたいに」
自分は何を話してしまっているのだろうか。
そう思っても、一度喋り出した言葉は止まってはくれない。
「作らなくちゃ、作らなくちゃって思って手が止まらないんです。さつまいものプディングだけじゃないんです、さつまいものお菓子だったら何でも……作ってみたくなっちゃって、これを作ってあげないとって……焦ったような気分で」
そう、いつだって俺は何かに焦っている感覚がある。小さい頃から胸にあるこの焦燥感の名は、一体何だと言うのだろう。
「これを早く『あの人』に食べさせたい……そんな声が、聴こえるような気がして……」
その声はどこから来るのだろう。俺は、どうしてお菓子ばかり作ってしまうのだろうか。
「そうか……」
煉獄先生は自身の顎に手を触れ、何ごとかを思案していた。あ、困らせちゃったかな。そんな俺の不安な気持ちを吹き飛ばすように、彼は微笑みを浮かべた。
「案外とそばにいるんじゃないか、竈門がお菓子を作ってあげたい相手は」
まるで、春の嵐に現れたぽかぽかの太陽みたいな笑顔だ。なんてあたたかくて、きれいな笑顔なんだろう。じわりと頬に熱が集まっていく。
「そうだといいんですけど……」
どうしよう、なんだか恥ずかしいぞ。
「竈門、きちんとプディングのお礼がしたい」
「え、いや、いいですよお礼なんて。むしろ、先生に試作品を食べさせてしまったのですから……今度はもっとちゃんとした──」
「君は苺は好きか?」
唐突すぎる問いかけだ。
「え、あ、はい……好きですけど……」
「いちご狩りに行かないか、君と……そうだな、君の彼女とも一緒に」
「彼女?」
「ほら君の彼女だよ、栗花落カナヲくんだ」
「カナヲが……あれ、先生ってカナヲのこと知っていましたっけ」
彼女って何だろう。煉獄先生も、クラスメイトもみんなおかしなことを言うものだ。
「俺が奢りたいんだ、とはいえ教師である以上できることはいちご狩りに連れて行ってあげることくらいだ、ぜひ君と栗花落くんと一緒にいちご狩りをしないか」
いちご狩りという魅力的なお誘いに、心が疼いているのは確かだ。煉獄先生といちご狩りに行けるなんて、こんなチャンス、滅多にないんじゃないか?
「なんだか申し訳ない気がしますが……先生がそう言うなら、カナヲにも聞いてみます」
「うん、ぜひそうしてみてくれ」
煉獄先生の笑みに蕩ける俺は、もうすっかり彼に惹かれてしまっているのだ。
煉獄先生という、とてつもない引力に。

週末のよく晴れた朝日の中、俺とカナヲは煉獄先生の運転する車に乗せてもらって、いちご狩りへと出発した。
煉獄先生といちご狩りに行こうよとカナヲを誘った時、彼女は数分ほど悩むような素振りを見せていたけれど、先生の好意を無碍にするのも悪いと思ったのだろう、小さく頷き返してくれた。それは俺も同じだった。彼がどうして自分とカナヲを誘ってくれたのか、その理由がよくわからないからだ。俺はそれなりに友達はいるほうだし、わざわざ異性を呼ぶ必要はないと思うけれど。もしかしたら、煉獄先生には俺とカナヲがとても仲の良い友達同士に見えたのだろうか。
後部座席に並んで座ったカナヲの、表情の読み取り難い横顔に目を向ける。彼女は、出会った時からそんな風に、どこか掴みどころのない人だった。

カナヲと出会ったのは、中学校の入学式の時。小学校のクラスメイトたちがそのまま中学校に上がっていく、代わり映えのしない入学式だった。けれど、カナヲは中学入学と共にこちらに越してきたばかりで、入学式に臨む面々にとっては見慣れない人であった。
「炭治郎……!」
そんな、俺もこの土地も知らないはずの彼女が、こちらを見るなり小走りに駆け寄ってきたのだ。
「よかった、炭治郎もここに……」
そう言って微笑んだ彼女の頬に、一雫の涙が流れ落ちた。まだ自己紹介すらしていない俺の名を呼んだ不思議な少女との出会いから、もう三年。三年もの間、彼女はその涙の理由も、俺の名を知っている訳も話してくれなかった。だから俺も、なんとなく聞いてはいけないことなのだろうと思って、聞かないままでいる。
ふいに、涙を流す煉獄先生の顔が思い浮かぶ。
彼もまた俺の名を呼んだ、生徒だから俺の名を知っていても何の不思議はないけれど、彼に名を呼ばれる理由はわからない。
でも、どうしてだろう。
もう一度彼に『炭治郎』と呼ばれてみたいと思っている自分がいるのだ──カナヲの時には思いもしなかった考えを抱き、彼女から目を離して運転席の煉獄先生を見つめる。彼の匂いで満ちた車内では、彼の持つ気持ちを全て把握できない。
ただわかるとすれば、彼は今にも泣きだしてしまいそうな、そんな匂いをさせていることだけだ。
ああ、泣かないで。
空はこんなにも明るいのだから。

山あいの一角に、農業用のビニールハウスが連なる光景が広がる。そこかしこに「いちご狩り」や、「いちご」といった看板が掲げられ、否が応でもテンションが上がっていく。車はその中の大きなビニールハウスがいくつか並ぶ場所へと滑り込んでいった。
「よお、待ってたぜ」
車から降りると、そんなぶっきらぼうな声が俺たちを出迎えてくれた。ギラギラしたバンダナを額に当て、不敵な笑みを浮かべるド派手な男。
「宇髄先生!」
「宇髄!」
俺と煉獄先生の声が重なった。思わずお互いに顔を見合わせてから、煉獄先生のほうが先に俺から目を逸した。俺は、彼から漂う動揺の匂いに戸惑って、立ち止まってしまった。カナヲは、俺たちの後ろで平然とした様子だ。
「どうしてここに……」
煉獄先生は珍しく焦りを見せていた。
「忍である俺様にかかれば、情報戦略なんざお手のもんよ」
「え、宇髄先生って忍者の家系か何かなんですか?」
俺の疑問に宇髄先生は、銃でも打つみたいにビシッと二本指をこちらに指した。ご名答とでも言いたいのだろう。
「まあ、そんなところだな。煉獄が先走って間違いを起こさねえようにと思って、悪いが先回りさせてもらった」
「間違いなど……」
ひょうきんな宇髄先生に対し、煉獄先生の横顔は険しい。二人は友人なのだろうか。学校でも、よく並んで立っている姿を見かけたことがある。しかし、友人とはいえ、煉獄先生の休日の行動を先回りするなんて、よほどの情報網を持っていない限り難しいのではないだろうか。
一体、どうやって……本当に忍者なんだろうか。
ふと、俺は苺だけでない、別の人間の匂いを嗅ぎ取っては、宇髄先生の背後に目を向けた。図体の大きい彼の後ろに、誰かがいるようだ。
「あの、後ろの方はどなたで──」
「おお! かまぼこ権八郎、生きていたか!」
「わっ、伊之助待て、落ち着けって!」
騒がしい声と共に宇髄先生の背後から飛び出してきたのは、青い髪の少女──のような少年だった。ワイシャツ一枚を素肌に羽織っただけの、腹筋がバキバキに割れた美少女──いや、胸はないから男だ──彼は、俺に向かって突進してきた。
「う、うわぁ!」
「おいコラ、逃げんじゃねえよ!」
「逃げたくもなるだろう! 何なんだ君は!」
反射的に飛び退り、なおも飛び掛かってこようとする美少女面の彼から、俺は逃げ回った。すると、今度は黄色い髪の少年が飛び出してきては、「こらー!」と腕を振り上げた。
「伊之助! 宇髄さんの説明聞いてなかったのかよ、今の炭治郎には記憶がないんだぞ!」
「記憶……?」
一見すると気弱そうな少年も、俺を追い回す猪突猛進な少年にも、面識はない。それなのに少年はごく自然に俺を「炭治郎」と呼んだ──まるで、カナヲや煉獄先生がそうであったように。二人分の親しみのこもった匂いに足が止まる。誰なんだろうこの二人はと、考えを巡らせてしまった、その時だった。
「伊之助!」
「炭治郎!」
甲高い声の少年と、カナヲの悲鳴にも似た叫びが聞こえた刹那、俺はふわりと……あたたかな腕に抱かれるようにして、その人諸共どうと地面に倒れ込んだ。

「あれ……俺……」
苺よりもずっといい匂いがする。頬に当たるぬくもりにぼんやりとしていると、「よかった……気が付いた!」と、先ほど悲鳴をあげていた少年の声がした。その声の主を見つけようと身じろぎした俺は、とんでもない状況に目を白黒させた。
腕の中だった。逞しい腕の中に抱かれて、その人の膝の上にしがみつくように抱き着いていた。すんと鳴らした鼻が、その匂いの持ち主にいち早く気付き、びくりと肩が跳ねた。
「れ、煉獄先生!」
「む、気が付いたか!」
煉獄先生はふわりと微笑みを浮かべた。しかし、その笑みは長続きしなかった。彼は数秒ほど顔に笑みを貼り付けたまま硬直し、何を思ったのか、ぐいと俺の肩を押して引き離した。
「すまない……」
さあっと顔を青ざめる煉獄先生に、俺も釣られるようにして身体を離しながら「いえ、大丈夫です」と、逸る自身の胸のあたりに手を当てた。
なんだ、なんなんだ。
鼓動がうるさい。
おまけに耳まで熱いぞ。

少しの間気を失っていたらしい俺は、いちご狩り客が待機する場所で、しばらく安静にさせてもらっていたようだった。そこはソファや椅子、小さいながらもテーブルがあって、時間制限のあるいちご狩りを待つ客が、ひと息つけるところだ。
どうやら、伊之助と呼ばれた少年が興奮状態で俺に突っ込んできたところを、煉獄先生に庇われる形で助けてもらったらしい。黄色い髪の少年が、青い髪の少年の頭を下げさせながら説明してくれた。青い髪の少年は、先程の勢いはどうしたのか、すっかりしょんぼりと項垂れてしまっていた。
だからと言って先生に抱き着くなんてどうかしてる。羞恥で熱くなった頬を両手で包み込みつつ見上げた煉獄先生は、その表情すら見せないまま勢い良く立ち上がってしまった。
「宇髄! すまない、水をくれないか!」
「お、目を覚ましたか! どうだ竈門、煉獄の腕の中は気持ち良かったろ」
宇髄先生の言葉に、俺の赤面は加速する。
気持ちいい?
そんな言葉ひとつで表せられるものじゃない。
できるのなら、もっとずっと──。
「冗談はよせ、男に抱かれて嬉しいも何もないだろ」
怒りを含んだ煉獄先生の声。舞い上がっていた気持ちが急速に萎んでいくのを感じる。周囲の声が広がりながら遠ざかっていく。
煉獄先生に助けられて俺は嬉しかったけれど、煉獄先生はきっと迷惑だったに違いない。俺に抱き着かれて嫌な気持ちだったんじゃないだろうか。
だって俺も煉獄先生も、男だから。
「炭治郎、これでも飲んで」
聞き慣れない声に顔を上げると、心配そうな顔をした黄色い髪の少年がペットボトルの水を差し出してくれた。
「俺は我妻善逸、さっきぶつかってきた野生児は嘴平伊之助。俺たちは昔からの友達なんだ……なんて、何言ってんだって思うだろうし、気味が悪いと思っても当然なんだけど……」
そう区切ってから、彼は俺にだけ聴こえるような声で、
「煉獄さんは、今でもお前のこと大切に思ってるから、不安に思うことはないよ。な、そんな泣きそうな顔なんてしないでさ、皆でいちご狩り楽しもうぜ」
善逸と名乗った少年の言葉は、理解しづらい部分も多かったけれど、自然と胸の中におさまっていく。きっと、彼からは嘘や欺瞞の匂いがしなかったからだろう。
「うん、ありがとう……善逸……と、呼んでいいのかな」
同じ年頃のような見た目の彼から、ペットボトルを受け取った。善逸は、ほっとしたように「ああ!」と微笑み返してくれた。

何事もなかったかのように、いちご狩りは始まった。伊之助と呼ばれた少年は「すまなかった」と、口を尖らせつつ謝ってくれたし、善逸という少年も「勝手に来てごめんな」と詫びてくれたから、何も問題はないのだけれど。カナヲや、宇髄先生、煉獄先生までも彼ら二人を知っていることが不思議だった。
「先生、あの二人のことをどうして知っているんですか」
「……古くからの知り合いだからな……」
煉獄先生は、苺を摘み取るハサミを紙コップに入れたまま、囁くように応える。甘い苺の香りにのせて漂う戸惑いの匂いに気が付かなかったフリをして、苺の茎にハサミを入れる。艶やかな苺を手のひらに包み込んで、そっと煉獄先生の顔を見上げた。交わらないだろうと思った目線が重なって、鼓動が跳ねる。
「……あ、の……」
煉獄先生の瞳の色って、炎みたいだ。なんて今更なことを思いつつ、俺は言葉を探す。
「煉獄先生も前に俺のことを名前で、……呼んでくれましたよね……どうして」
「悪かった、もう君を名前で呼ばないようにする」
どうして──その後に続けようとした言葉は、彼の言葉によって行方を見失った。
「さっきは抱きしめてしまってすまない、……気持ち悪かっただろう、もう君に触れないから安心してくれ」
「どうして謝るんですか」
「……すまない」
「先生!」
俺は、また身を離そうとする先生の手を慌てたように手に取った。熱くて熱くて、焼けてしまいそうなほどのぬくもりが、この胸を焦がしていく。驚いた顔で振り返った煉獄先生から、鼻先へと届いたその匂いは──苺なんかよりもずっとずっと甘く、濃くて──その強烈なまでの匂いが意味する気持ちの名前に怯んで、せっかく掴んだその手を、俺は離してしまった。

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