恋心、弾ませて
「竈門先輩が好きです、よかったら私と……付き合って下さい!」
校庭の木々が、近付いてくる冬の気配を感じて落葉する季節になると、人は物寂しい気持ちにでもなるのだろうか。赤い顔を俯かせ、健気に震える少女の様子を見下ろしながら、竈門炭治郎は小さく息を吐いた。
「ごめんね、俺は誰とも付き合うつもりはないんだ」
校舎裏の人気のない場所に呼び出された時点で、少女が自分に何を言わんとするのか炭治郎には想像できていた。いや、入学当初から、この手の呼び出しは多かったから、靴箱に入っていた小綺麗な封筒を一瞥しただけでわかったと言っても、過言ではないだろう。
先輩と呼んできた少女に面識はない。もしかしたら学校内のどこかですれ違ったかもしれないが、見覚えのない顔だ。匂いすらも、記憶にない。
「じゃ、じゃあ……! 私をはじめての、彼女にして下さい!」
「いや、だから俺は誰とも付き合うつもりは……」
「先輩には好きな人がいないんでしょう、だったら私と付き合ってみてください、私のこと、好きになるかもしれないじゃないですか……!」
やけに食い下がる子だな。
若干の不安を覚えた刹那、鼻が嗅ぎなれた匂いを捉えた。ふと炭治郎が視線を上げた校舎の窓辺に、黄金色の気配があった。獅子の鬣にも似た輝くような髪に、轟々と燃える炎を散らした、素敵な人。表情までは読み取れなかったけれど、その人の目がこちらを捉えた気がして──。
「ごめん、用事があるんだ。この話しはこれで終わりにしよう」
「竈門先輩……!」
放っておけば抱きついて来そうな少女を残し、炭治郎は足早にその場を離れた。走り去る背中に、少女の悲鳴にも似た泣き声だけが、抉るように傷をつける。
恋心という厄介な爪痕は、いつだってこの胸を蝕むのだから。たまったものではない。
足はそこそこ早いほうだと自負していたが、先ほどの人物がいたであろう場所についた頃には、その人らしい気配はなかった。ゼエゼエと息を切らしつつ、当たりを見回しても、鼻で匂いを辿っても、放課後の校舎からあの人の居場所を探ることはできない。
胸が痛い。
全速力で階段を駆け上がったせいではない、まして、あの少女の告白を断ったからではない。
「煉獄先生……」
炭治郎は痛む胸を押さえるように、小さく小さくあの人の名前を呟いた。そうすれば、少しでもこの痛みが治まるような気がしたのだ。
「好きです、煉獄先生……」
己のエゴに塗れた告白をしたのは、ほんの数日ほど前だ。
竈門炭治郎は、叶わぬ恋をしていた。金色の髪と、琥珀色の目をした優しい面差しの教師に恋をしていた。ブロンドの髪などと言えば聞こえはいいだろうが、生憎とその人はどこからどう見ても男でしかなかった。
太い首、太い腕、太い腰。ガッチリとした体躯に、後ろの席までよく通るハキハキとした声。目はいつだって爛々と輝いて、闇の気配すら知らないような、眩しい人。
「煉獄先生が、好きです」
最初は憧れからくるものだったと付け加えながら、炭治郎は煉獄先生と二人きりになったタイミングで、そんなことを口走ってしまった。高校三年生、受験が差し迫っていく中、こんなことを言いたくて彼のもとに来たわけではなかった。一年生の頃から続けていた社会科係の名の元に、煉獄先生の手伝いをしに社会科準備室に来た、ただそれだけのことだったのに。
「先生が、好きです……」
それなのに、煉獄先生の大きな背中を見上げているうちに気持ちが溢れて、どうしようも止められなくて、炭治郎は吐露してしまったのだ。三年近くも、積み上げてきた恋心を。
「先生には恋人がいないのだと伺っています、だから俺と付き合ってもいいんじゃないでしょうか」
身勝手な言い分だ。
相手がいないから自分でもいいのではないか、なんて。
相手の都合も顧みず、己の気持ちだけを押し付けようとする愚行だ。炭治郎は、馬鹿みたいに速まっていく心臓を押さえるように、胸のあたりをぎゅうっと握り締めた。指定のベストごと、シャツが皺になっていく。
「竈門」
先生は、静かに振り返った。その顔の穏やかさを目にして、炭治郎の淡い恋心はガラガラと大きな音を立てて崩れ落ちて行った。彼の目は、あまりにも真っ直ぐだったのだ。
「すまない、生徒とは付き合うことはできないんだ」
その日からずっと、炭治郎の胸は痛んだままだ。
言っていることも、やっていることも、彼に告白して来る少女たちと何ら変わりはない。ただ好きだというだけで、己の気持ちを勝手に打ち明けて、あまつさえ思い通りにしようと目論んで。そうして成就できなかった恋に声をあげて泣いて、喚いて。
結局のところ、炭治郎だってあの少女たちと同じなのだ。恋という盲目的なまでの衝動に突き動かされてしまった、幼い子供でしかない。
恋人はサンタクロース、なんて素敵な音楽が街を彩る季節がやってきた。生憎と雪とは無縁な街だけど、校庭の木々はすっかり葉が落ちてしまって、冬の訪れを実感させる。秋にぽつぽつとやって来ていた少女たちの告白劇も、クリスマスを目前にすると焦りが出てくるのか、連日のように炭治郎は校舎裏に呼び出されていた。
答えなど分かりきっていても、少女たちは炭治郎の口から答えを欲しがった。望むような答えなど貰えなくてもいいのか、少女たちは気持ちを伝えるだけ伝えて、落胆し、泣いて、そうして翌日にはけろりと笑っていた。
けれど炭治郎の心だけは、晴れることはなかった。彼女たちのように、振られてしまっても前向きになれなかった。目線はいつも煉獄先生を求めてしまっている。彼の目が、こちらを向いてくれる瞬間ばかり願って、それが叶うこともないまま、街は冬色に染まってしまった。
煉獄先生は、炭治郎にとって憧れの人だった。
入学式の日、トイレを探して校舎内で迷子になってしまった炭治郎に声をかけてくれたのが、彼だった。
「どうした、新入生」
朗らかな声の彼は、そう声をかけるなりしばらく炭治郎を見下ろし、梟みたいな目を見開いていた。あまりにもじっと凝視されているので、その時は自分が何か失態を侵してしまったのかと身を小さくさせたものだ。けれど彼は、大きな手のひらでふんわりと炭治郎の頭を撫でてくれたのだ。ほんの一瞬だったけれど、本当に些細なことだったけれど、今でもそのぬくもりに満ちた手が忘れられないのだ。
それが例え、新入生への激励のためだったとしても。
炭治郎にとっては、かけがえのないきっかけだったのだから。
それからは、暇さえあれば煉獄先生の後を追う雛鳥のように、学校生活を過ごした。煉獄先生は歴史教師だ。彼の手伝いができる社会科係に立候補して、とにかく三年間彼の背中を追い続けた。最初は憧れだった、というのは本当だ。煉獄先生の竹を割ったような、スッキリとした性格に、純粋に尊敬していた。授業に熱心で、たまに熱くなりすぎて教室の黒板を破壊してしまうような彼を、どうして好きにならないわけがあるだろうか。
それに、社会科準備室に行けば、いつだって労いと称してちょっとしたお菓子をご馳走して貰えた。テストで良い点を取れば、我が事のように喜んでくれた。
煉獄先生、煉獄先生。
炭治郎の世界が、煉獄先生を中心に回っていくことなんて、本当にあっという間だった。だからこそ、ただ一度の身勝手な告白で、世界が壊れてしまったことに絶望しているのだ。
ああ、そうだ。
煉獄先生に振られて悲しいのではない。
煉獄先生に振られて、煉獄先生との日常を失ってしまったことが、悲しいのだ。自分で積み上げた積み木を崩しておきながら、どうして崩したのと泣き喚く子供のように。自らの愚かさで壊してしまったというのに。
まるで、被害者のように。
「お買上げ、ありがとうございます!」
クリスマスというイベント事は、紛いなりにも炭治郎の心を少し遠くに離すことができた。ちょうどクリスマスは休日だ。学校に行くこともないから、炭治郎は実家の洋菓子屋を手伝っていた。
クリスマスには、飛ぶようにケーキが売れていく。
予約はもちろんのこと、当日店頭に並んだケーキたちも、次から次へと売れていくから、レジが捌ききれないのだ。炭治郎には下に五人の兄弟たちがいて、その中でも妹の禰豆子と、弟の竹雄が、炭治郎とともに両親の手伝いをしていた。手伝いと言っても、おもにケーキを箱に詰める仕事だが、それでも大賑わいの店にとっては大切な仕事だ。小さい弟たちは、妹の花子と親戚の鱗滝さんに託している。
この忙しさは、日々胸を痛ませている恋心の消失を少しでも忘れさせてくれた。陽気なクリスマスソングが、店の中を包み込む。次から次へと箱を組み立てて、注文通りにケーキを詰めて、保冷剤と一緒に紙袋へ。
「お待たせしました、クリスマスケーキを五つのお客様──」
朗らかな気持ちで、紙袋を五つほどカウンターに置きかけて、炭治郎は言葉に詰まった。
「先生……」
あの告白の日以来、まともに顔を見られなかった煉獄先生が、カウンター越しに立っていた。驚いているのは炭治郎だけで、煉獄先生は動揺のひとつも見せずに財布を出して会計を始めてしまった。先ほどまで独楽鼠のように忙しなく動き回っていた長男が急に硬直したのだ。妹の禰豆子と竹雄が不思議そうに兄を振り返った。
「ありがとうございました!」
母の明るい言葉にハッとして、炭治郎も頭を下げる。恐る恐る顔を上げた炭治郎の視界にはもう、煉獄先生はどこにもいなかった。
失恋の痛みは、忘れさせてくれないようだ。
合格発表に心が弾んだのも一瞬で、三年生にはもう、この学び屋で過ごせる時間も僅かしか残されていない。下級生たちは、上級生たちを見送る準備に余念がない。色紙を用意していたり、卒業式に合わせて紙で花束を作ったり、まるで一大イベントのように。そう、一大イベントなのだ。たった三年間とはいえ、この学校で過ごしてきた日々は実に長く、思い出に溢れていた。
卒業式の日。胸元に白いブーケのような飾りをつけながら、この痛みとともに卒業できたらと、吐息を零す。煉獄先生にはもう会えない。彼の授業を受けることもできない。彼の手伝いもできない。彼に激励されることもない。
これからは、別々の道を行き、自分はいつか他の誰かを愛するのだろう。煉獄先生ではない誰かの手を取って、煉獄先生ではない誰かに向かって愛の言葉を囁くのか。
どうしたって取れない胸の痛みが、いつか和らぐ日が来るのだろうか。
「おーい、竈門。先生が呼んでるぞ」
滞りなく終えた卒業式。クラスメイトたちが各々、別れに涙を浮かべている最中、教室の入り口でクラスメイトが手招いた。今更卒業生を呼ぶ用事などあるのだろうか。訝しむ炭治郎に、その生徒は上階を指差した。
「歴史の煉獄先生が、竈門に忘れ物があるから呼んで来いって。お前、先生のとこに何を忘れたんだよ」
揶揄うような言葉に、ちゃんとした受け答えができない。何で、どうして。疑問ばかりが浮かぶ中、炭治郎は全速力で階段を駆け上がった。
少し前までは、当たり前のように開いていた社会科準備室のドアが、妙に大きく感じられた。胸は張り裂けんばかりに痛くてたまらない。このドアを開けたら、弾け飛んでしまいそうなほどに。
「卒業おめでとう、竈門」
準備室に入るなり、煉獄先生は穏やかにそう言って微笑んでくれた。冬でもシャツを腕まくりにするような人が、きっちりと上等なスーツを着こなし、嗅ぎなれない甘い匂いを纏っていた。
「先生……忘れ物って、何ですか……」
「ああ、ずっと申し訳ないと思っていたんだ」
ふいに煉獄先生が膝をついて、炭治郎の左手を取った。王に忠誠を誓う騎士のように、恭しく炭治郎の手を取った男は「この甲に、口づけを許してほしい」と願った。煉獄先生の手は燃えるように熱く、その眼差しは炎のように燃えていた。胸の痛みが増して、震えて、動揺して手先を震えさせる。
「どうして……」
「あの日、君に言っただろう。生徒とは付き合えないと……」
手の甲に、煉獄先生の唇が触れる。
「君はもう、この学校の生徒ではなくなった。だから、竈門炭治郎……この俺と、結婚を前提に付き合って貰えないだろうか」
言葉が、素直に胸に落ちてくれない。
「断ったら、俺が断ったら……どうするんですか……」
「何度でも、君に挑んでいく。好きだ、竈門……君のことが」
その先の言葉は、声を上げて泣いてしまった自分の声にかき消されて聞こえなかった。けれど、こんなみっともない子供を抱き寄せてくれた人の腕のぬくもりが、恋の成就を教えてくれた。煉獄先生に思いっきり抱き締められた恋心は、胸を甘く震わせる。
痛みなんてもう、感じさせないほどに──。

※コメントは最大1000文字、50回まで送信できます