「恋のレッスン──初級編」
「兄ちゃんさ、もうちょっと身だしなみに気を付けるってことをしたほうがいいんじゃないの」
飽きれたように竹雄は言うけれど、少し屈みがちにネクタイを結んでくれる手つきは優しい。まだ中学生になったばかりだと思っていたのに、いつの間にか弟に背を抜かされていることを実感しつつ、炭治郎はにへらにへらと笑って従うばかりだ。年上の威厳など、どこにもない。
「やれやれ、はい、出来たよ。卒業するまでには自分でネクタイ結べるようになってくれよ」
「ありがとう竹雄、兄ちゃん助かったよ」
お礼とばかりにつま先を立てて、炭治郎は弟の頭を撫でようとしたが、運動部らしい俊敏さでそれすらも回避された。
「んなことしなくていいから、ほら、鞄持って! 弁当は入ってるよな、あとハンカチ。ハンカチはいいんだけど、弁当箱は兄ちゃんいつも忘れるから……」
「ありがとう竹雄、お前はいい子だなあ」
「だから撫でようとすんなって! 遅刻するから!」
「お兄ちゃん! 竹雄! いつまでやってるの、遅刻するよ!」
階下から聴こえるのは竈門家長女、禰豆子の声だ。炭治郎と竹雄は慌てたように鞄を掴むと、階段の下にいるだろう彼女に向かって声を揃えた。
「今行くよ!」
一番下の弟、六太の物心がつく前に父親を病気で亡くしてしまってから、炭治郎たち兄弟はそれぞれ父親や母親のような役割で動いている。長男である炭治郎が父親で、母親はすぐ下の禰豆子。まだまだ手のかかる妹弟たちをまとめて、元気よく毎日を生きていくのが炭治郎ら兄弟の役目だ。元気でいなくちゃ、女手ひとつで家を支える母に苦労をかけてしまう。何せ母は、父と切り盛りしていたパン屋を引き継いだのだから。
しかし最近、その父親役から炭治郎は降ろされつつあるようだ。次男の竹雄が中学二年生を境にぐんと背丈を伸ばし、高校生である炭治郎を追い越してしまったのである。この世は弱肉強食。兄弟同士で張り合うつもりはないけれど、やっぱり図体が大きいと態度も大きい。いや、竹雄の態度が鼻につくなんてことはないんだけど、むしろまだまだかわいい弟であることは変わらないんだけど。
「兄ちゃん、靴下に穴空いてる」
「あれっ、ほんとだ!」
「新しいのに履き替えてから行ってよ、みっともない」
「ありがとう竹雄、でも今日は体育もないしこのまま行くよ!」
「みっともないって言ってるだろ!」
父親なのか、母親なのか。とかく兄の世話を焼きたがる弟を前にすると、どうにも誰が長男なのかわからなくなってしまう。それがこのところの悩みといったところだろうか。
「ははは、それはそれは! 竈門少年も参ったことだろう!」
「笑い事じゃないですよ! 兄の沽券に関わります!」
ぷうと膨れてみせる炭治郎のどこが兄らしいのかは疑問だが、人生の大先輩である煉獄先生の前ではどう足掻いたって子供でしかない。
部活動に入っていない炭治郎が放課後に通うのは、歴史教師である煉獄先生の根城、社会科準備室。どうしてこんなところにやって来て、煉獄先生と談笑しているのかという話しをすると、それはそれは気の遠くなるような身の上話から始まってしまうので、ここでは割愛させてもらおう。
準備室に備え付けのソファに浅く腰をかけて、足をプラプラさせていると、すとんと炭治郎の足から革靴が床に滑り落ちてしまった。その様子を笑いを含みながら見守っていた煉獄先生は、学校指定の靴下の先っぽに大きな穴を見つけたところで、身体をくの字に曲げて笑い声をあげた。
「あははは! たっ、竹雄くんのっ、くくっ、言うとおりだ! あっはっはっ!」
ばんばんと自身の膝を叩くものだから、ソファが大袈裟なほどに軋んで、隣に座る炭治郎ももれなく小刻みに揺れる。
「もうっ、そんなに笑うことじゃ」
ないですよ、と続ける炭治郎も肩を揺らして笑っている。靴下の先っぽからぴょこんと飛び出た親指だけが、どうして二人してお腹を抱えて笑っているのかわからないという風にぷらりと揺れていた。
散々二人で笑い合ったところで、
「購買部に靴下は売っていただろうか」
と、煉獄先生は話題を変えた。この靴下は指定の靴下で、どこでも買えるわけではないのだ。
「確か売っていた気もします」
腹が捩れるほど笑った腹を撫でながら応えると、煉獄先生は少し腰を屈めるようにして穴の空いた靴下を見つめた。
「この時間、空いているだろうか」
「さあ……もう皆さん帰ってしまっているかもですね」
「校章がついているんだな」
「ええ、この校章かっこいいですよね」
「ネクタイにも同じものがついていたな」
「先生、この学校に来て何年になるんですか」
「まだ五年程度だよ、日々驚きでいっぱいだ」
若さ溢れる教師の口はその後に「えっちだな」と、教師らしからぬ言葉を呟いた。猛禽類みたいな目が、下から覗き込むように炭治郎を見上げる。その目は萌黄色のネクタイを撫でながら、ごくりと唾を飲み込む炭治郎の目に触れた。先生の目の中には炎が渦巻いているようだ。初夏らしい明るい夕陽が虹彩をぐるりと包んでは、きらりと光らせた。
「君を見ていると、甘やかしたくなる」
「子供だからでしょう」
「違うな、大人びた振りをするからだ」
下から掬い上げるように先生の唇が、殊勝な態度を取る子供の唇を捉える。ひとつ、ふたつほど柔く唇を食んでから、先生はするりと身体を離した。
「じゃあ、俺を大人にして下さいよ」
「うーん、魅力的なお誘いだが、今はお断りしておこう」
「先生の意地悪」
「ははは、でも、こういう煉獄先生も好きだろう?」
むすっと唇を尖らせる子供は、やはりどう足掻いたって子供でしかない。ネクタイをな、と先生は萌黄色のネクタイに目を落としながら続けた。
「ネクタイを一人で結べるようになったら、先生とえっちなことをしようか」
ぱちぱち。
瞬きの音が五月蝿い。
「え、それ本気で言ってます?」
「俺は嘘の付けない男だ」
「きっと俺、すぐできちゃいますよ」
「高二にもなってネクタイを結べないくせに?」
「いや、できます、できますって! もうほんと今からだってできますよ、見てて下さい!」
そう言って結び目を解こうとネクタイに触れるものの、それを解くことすらできない。焦りのせいだろう。いつもならシュルリと解けるネクタイが、全然解ける気配がない。大体、先生が『えっちなこと』なんて言うからいけないんだ。えっち、えっちなことってなんだ。ベロチューかな、きっとベロチューだ。ほらあの、舌と舌でチューをするあれで。
「竈門少年」
「何ですか、俺、今から結び直しますからね! えっちなこと、期待してますからね! って………あれ、あれっ」
「家ではどうやって解いているんだ君は」
「いっ、いつもなら出来るんですよ、ちょ、もう……! 何でこういう時に限って……っ!」
「竈門少年」
「だから何──」
ぐいとネクタイが引っ張られ、再び唇と唇が触れ合う。背中に回るあたたかな腕に、肩が跳ねる。ぴちゃと水音が響いて、呼吸と呼吸が混じり合う。
「俺は本気だ、だから君も本気を出せ」
分厚い舌が歯列をなぞって、蕩けた口から溢れる唾液をちゅるりと吸った。至近距離で見る煉獄先生の圧倒的美貌に、身体が痺れたように動けない──。
こんなにも俺を翻弄するキスなのに。つまり、ネクタイを結べるようになったら、これよりももっとえっちなことをするってことですか、先生!
「兄ちゃん、いいから貸しなって」
「いや、兄ちゃんはな、生まれ変わったんだ!」
「何がだよ、全然できてないじゃん」
姿見の前でネクタイと悪戦苦闘する不器用な兄に、登校前の竹雄は苛立ちを隠せないようだ。
「遅刻するから、こっち向いてって!」
「いいって、兄ちゃんは出来る男なんだ!」
「もーーお兄ちゃん、竹雄ーーー! 遅刻しちゃうよーー!」
階下から響く禰豆子の声。「もう俺がやってあげるから」と手を伸ばそうとする竹雄を押しのけつつ、炭治郎はもうどうにでもなれとネクタイを結んでいく。ああだめだ、不器用すぎてどんどんねじ曲がっていく。
「俺は長男だ、長男だからできる!」
「兄ちゃん、いい加減あきらめなって」
「いや兄ちゃんは諦めない、絶対に諦めない!」
「もうっ! お兄ちゃん、竹雄! 私もう行くから!」
バタンッと玄関のドアが閉まる音に続いて、「だったらもっと結び方覚えておけばよかったじゃん」と竹雄も階段を降りていく。結局、ねじ曲がったネクタイをつけて登校してきた炭治郎を、ちょうど校門前で鉢合わせした煉獄先生に大爆笑されるというオチである。
面白くも何ともない話しではあるけれど、これもまた炭治郎と煉獄先生の恋物語の一ページ。これからも、ほんのちょっとだけ進んだり戻ったり、あるいは爆走してしまう炭治郎たちの物語を見守っていてほしい。
では、これにて一旦失礼!
え、それで炭治郎が煉獄先生からえっちなことをしてもらったかって?
──皆まで言わないで欲しい、彼はどう足掻いても不器用な男なのだから。
rntnワンドロワンライお題「ネクタイ」

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