「恋のレッスン──初級編3」
煉獄先生と出会ってからの日々は、宝物のようだったと炭治郎は思い返す。
放課後から帰宅するまでのタイムリミットは、おおよそ二時間程度が限度だ。それ以上の時間を拘束する部活動も多いが、残念ながら炭治郎は帰宅部だ。本来なら終礼が終われば家に直帰しなくてはいけない立場だ。それなのに彼は放課後になると必ずと言っていいほど、とある場所へと向かってしまう。天気が良くても悪くても。休校日や休日はもちろん向かうことはできないが、それを除けば毎日毎日、その場所のドアをそろりとスライドさせる。
「やあ、竈門少年」
「しっ、静かに!」
炭治郎は部屋の中にぬるりと身体を滑り込ませながら、人差し指で自身の口もとを押さえた。部屋の主はその様子を見て何が可笑しいのか、「ふふっ」と肩を揺らしている。笑い事ではない、猶予は実に二時間もない。物音ひとつ立てないように、また、廊下側から自分の姿が見えたりしないように中腰の姿勢でドアをゆっくりと閉じていく。気分はさながら忍者である。そう、炭治郎は重要任務を遂行するエリート忍者である。
「あははははっ、ははっ、ははっ、あっはっはっ!」
「しーっ! 先生静かにして下さいよ!」
「すまなっ、くふふふっ、いやっ、だって君がっ、あははは!」
この戦場をくぐり抜けるには、煉獄先生のとにかく大きくて存在感のある笑い声を止めなくてはいけない。そうでなければ、この任務を達成することはできないのだから。
「もうっ、先生ったら、静かに──」
「うん、静かに、な?」
校舎中に響き渡るような声を上げていた人が、あっという間に炭治郎のそばへと膝をつき、その美しい口もとに人差し指を当てた。その瞬間だけ潜められる声量に、思いの外至近距離にある琥珀色の瞳に、炭治郎の心はいつだってざわめいてばかりだ。
やがて廊下の向こうから騒がしい足音が近付いて来る。その音がこの準備室の扉を開く時、炭治郎と煉獄先生はデスクの下に潜り込んで隠れん坊。廊下側から、二人の姿を確認することなどできない。足音の持ち主はしばし部屋の様子を窺っているようだったが、やがて大きなため息だけを残して、部屋を辞した。
閉ざされた扉の向こう、人の気配が遠ざかっていくまでの間、炭治郎は煉獄先生の広い腕の中。彼の逸る鼓動を頬に感じながら、しっとりとした吐息を零す。伝う体温、額にかかる息、耳もとを擽る髪の柔らかさ。そのどれもが炭治郎の心をかき乱す。きゅっと煉獄先生の胸元のシャツを握りしめると、ぎゅっと背中を包み込むように抱きしめられる。お互いにデスクからはみ出さないようにと、これ以上ないほどにくっついておきながら、言葉のひとつも零さずに、ほんの少しの時間を共有する。
あとたった二時間、いや、もう二時間もない。
帰宅時間の早い部活動生たちがちらほらと帰路につく頃、夕陽が傾いて準備室の中に陰を落とす頃、漸く二人はデスクから這い出してくる。互いに顔を赤く染めながら、控えめに指を絡ませながら。
気持ちを伝えたことも、伝えられたこともない。ただなんとなくそばに居て、心地よいと勝手に思っている。
煉獄先生はしばらく、名残を惜しむように炭治郎の指に触れていたが、窓の向こうの景色が夜に近付いていることに気が付いて、さらりとその指を解いてしまった。
「竈門少年」
豪快に笑ってばかりの人の、自分だけにしか届かない潜められた声というものは、どうしてこうも心をかき乱すのか。
「気をつけて帰りなさい」
明るい内なら軽口のひとつやふたつ言い返せるのに、今はただ赤い顔をして小さく頷き返すことしかできない。
放課後なんてあっという間だ。どんなに会話や話題を用意しても、いつも時間はあっさり溶けて明日になってしまう。こんなにも短い時間しかないのだから、足掻くように現状を打破する言葉を言ってしまっても良いんじゃないだろうか。それなのに口は、いつも優等生の形を作る。
「はい、煉獄先生。さようなら、また明日!」
明日なんて来なければいい。そうしたらこの場所でずっと、ずっとずっと煉獄先生と共に居られるのに。
rntnワンドロワンライお題「放課後モラトリアム」

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